大寶寺は深い山の中のお寺です。四十三番の明石寺からはおよそ85kmの山道をたどる遍路道で距離は岩本寺から足摺岬の先端の金剛福寺の95kmにはおよばないものの、幾つもの峠を越える山道はまさに四国最大の難所と言われています。我々は四十六番の浄瑠璃寺から下ってきましたがそれでも山坂を越える1時間ほどの道程でした。
大寶寺の歴史は大宝元年(701年)文武天皇の勅願により創建したのが始まりと言います。兵火など幾度かの火災で焼失し現在の本堂は大正14年の再建と言います。
長い石段を登って行くと仁王門、さらに石段を登って行くと本堂、その隣に大師堂が建っていました。
真言宗の新義真言の一派。総本山は奈良桜井市の長谷寺。真言宗智山派と同じく覚鑁(かくばん)を開祖とする。織田信長のため根来寺を追われた専誉(せんよ)が一派を形成した。
四国にある弘法大師ゆかりの88か所の寺院の総称で、四国霊場の最も代表的な札所である。
1番 霊山寺、2番 極楽寺、3番 金泉寺、4番 大日寺、5番 地蔵寺、6番 安楽寺、7番 十楽寺、8番 熊谷寺、9番 法輪寺、10番 切幡寺、11番 藤井寺、12番 焼山寺、13番 大日寺、14番 常楽寺、15番 国分寺、16番 観音寺、17番 井戸寺、18番 恩山寺、19番 立江寺、20番 鶴林寺、21番 太龍寺、22番 平等寺、23番 薬王寺、24番 最御崎寺、25番 津照寺、26番 金剛頂寺、27番 神峯寺、28番 大日寺、29番 国分寺、30番 善楽寺、31番 竹林寺、32番 禅師峰寺、33番 雪蹊寺、34番 種間寺、35番 清滝寺、36番 青龍寺、37番 岩本寺、38番 金剛福寺、39番 延光寺、40番 観自在寺、41番 龍光寺、42番 仏木寺、43番 明石寺、44番 大寶寺、45番 岩屋寺、46番 浄瑠璃寺、47番 八坂寺、48番 西林寺、49番 浄土寺、50番 繁多寺、51番 石手寺、52番 太山寺、53番 円明寺、54番 延命寺、55番 南光坊、56番 泰山寺、57番 栄福寺、58番 仙遊寺、59番 国分寺、60番 横峰寺、61番 香園寺、62番 宝寿寺、63番 吉祥寺、64番 前神寺、65番 三角寺、66番 雲辺寺、67番 大興寺、68番 神恵院、69番 観音寺、70番 本山寺、71番 弥谷寺、72番 曼荼羅寺、73番 出釈迦寺、74番 甲山寺、75番 善通寺、76番 金倉寺、77番 道隆寺、78番 郷照寺、79番 天皇寺、80番 国分寺、81番 白峯寺、82番 根香寺、83番 一宮寺、84番 屋島寺、85番 八栗寺、86番 志度寺、87番 長尾寺、88番 大窪寺
第42代天皇(在位:697年8月1日~707年6月15日)天武天皇・持統天皇の孫。草壁皇子の第一皇子。大宝律令を制定。万葉集、懐風藻に入集した。陵墓は奈良県高市郡明日香村栗原の檜隈安古岡上陵。
真言宗の新義真言の一派。宗祖覚鑁(かくばん)は真言宗の教義に念仏を加味し、高野山の大伝法院にあって布教に努めた。その教勢が高野本山をしのいだため紛争を生じ1140年円明寺を開いて分立した。
平安後期の真言宗の僧(1095~1144年)高野山に大伝法院、密厳院などを建立し、金剛峰寺とともに座主を兼ねたが一山の反対にあい根来に移った。新義真言宗の開祖、伝法院流の祖。
六観音は六道輪廻の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもの。地獄道 - 聖観音、餓鬼道 - 千手観音、畜生道 - 馬頭観音、修羅道 - 十一面観音、人道 - 准胝観音、天道 - 如意輪観音とされる。天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。
平安時代の僧。真言宗の開祖。最澄と並ぶ平安仏教の確立者。15歳で母方の伯父阿刀大足(あとのおおたる)について京都へ遊学。延暦23年(804年)入唐し翌々年帰朝。高野山に金剛峰寺を建立し東寺(教王護国寺)を真言道場とした。
第40代天皇(在位:673年2月27日~686年9月9日)舒明天皇第三皇子。天智天皇の皇太子となったが、天皇の死に際し吉野に退去。672年挙兵して大友皇子を破り、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に即位。国史の撰修に着手、八色姓(やくさのかばね)を制定し律令体制を推進した。陵墓は奈良県高市郡明日香村野口の檜隈大内陵。
第41代天皇(在位:686年9月9日~697年8月1日)天武天皇の皇后。女帝。天武天皇の死後政務に携わり、皇太子草壁皇子の病死で即位。697年、文武天皇に譲位後は太上天皇として政務をみる。都は藤原宮。陵墓は奈良県高市郡明日香村野口の檜隈大内陵。