山ノ神駐車場9:10~平代山10:20/35~宮標石峰10:50~津久井堂所山11:00/15~B29監視哨11:30/12:00~山ノ神駐車場12:40
津久井湖の周辺には雨乞山、南山、津久井城山などのハイキングの対象となる背丈の低い山が幾つかあります。津久井堂所山もそのような山の一つで、春にはミツバツツジの咲く山としてヤマレコなどにも山行記が紹介されていました。
登山口は津久井湖ゴルフクラブ近く、山ノ神のある林道の終点です。10台ほどの車が停まることができるようですがこの時期山を目指している車はありませんでした。
林道の車止めから杉林の中の林道を登り始めます。四方竹林への道を左に分けると、信玄道の道標です。この近くには戦国時代、武田信玄と北条氏との激戦があった三増峠があります。甲陽軍鑑によるとこの戦いにおいて武田方の小幡重貞軍は長竹村の囲い沢(隠し沢)で北条方の津久井城を牽制したと伝えられています。信玄道はそのような歴史を残すところなのでしょう。
林道はさらに先まで続いていましたが程なく荒れた沢、かすかな踏み跡が沢沿いに続いていました。
支尾根の上に山道が続いていましたが廃道となっているようです。モミジイチゴの棘っぽい小枝を分けながら沢の源頭を巻くと細い登山道にたどり着きました。ひと登りした平代山は杉木立の中の広場と言ったところです。
平代山からは津久井堂所山へと細い登山道を下って行きます。しばらく下ると鞍部、右手には青山方面へ下って行く道が分かれています。
わずかに登ったピークは宮標石が置かれた広場、近くには宮標石に関する説明版が建っていました。
一度下った尾根道を登り返すと津久井堂所山です。広く開けた斜面はミツバツツジが咲くところ、津久井湖ゴルフクラブの先には奥高尾の稜線、その先には霞んだ陣馬山も見えているようです。
振り返ると木立の間から津久井城山、その先は春の霞んだ空の下に相模原の街並みが広がっているようです。
山頂に置かれた2等三角点は標高改算などが行われたのか、近くに掘り返された標石が放置されていました。
尻久保川に下って行く道を右に分けると程なく送電鉄塔です。ここも視界が開けるところのようで案内板ではスカイツリーも見付けることができるとか。
やがて道は中野へと下って行く道を左に分けます。わずかに登り返した木立の中にB29監視哨があります。近くの説明版によると、戦時中、富士山を目指し北上したB29が東京に向かい進路を変えるところで迎撃や空襲警報のため監視哨が設けられた言います。大月のむすび山にも同じような監視哨があったようですが建物は残っていませんでした。
分岐に戻り四方竹の林を超え山ノ神の駐車場に戻ることにします。途中で出会った地元の人は「この山はどこにでも降りることができるのでたくさんの枝道がある、最近はロウバイやツツジなどが植えられたくさんの人がくるようになった」と言っていました。確かに春先の散策には丁度良い山のようでした。
GPSLogは受信状態が悪いため欠測しています。
1521~1573年、戦国時代の武将。名は晴信。父、信虎を追放して家督を継ぎ信濃に進出する。越後の上杉謙信と川中島で激戦を展開した。1572年、西上の途次三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康を破ったが翌年三河の陣中で病没。軍略家としてすぐれ信玄家法を制定、鉱山開発・治水にも業績をあげた。
1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。
1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成を関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。