渋谷駅10:16~金王八幡宮~豊栄稲荷神社~商和稲荷神社10:49~渋谷氷川神社11:09~伊藤稲荷神社~福昌寺~天丼てんや恵比寿店11:39/12:03~恵比寿駅~三田春日神社~目黒駅12:47~徳蔵寺~五反田駅13:12~目黒川・大崎橋~居木神社13:49~観音寺~大崎駅14:13
東京の中心を走る山手線の街歩き、今回は渋谷駅が歩き始めです。
3月24日に開花宣言が発表された東京の桜は、先週の雨や季節外れの低温の影響もありようやく満開を迎えようとしています。開花から満開までが7日くらいと言われているようですが、今年は満開まで2週間近くかかったようです。
渋谷駅の駅前は外国からのお客さんなど、多くの人で賑わっています。駅前の忠犬ハチ公広場ではハチ公の慰霊祭が行われるようです。工事の為、白いフェンスで覆われていたハチ公の銅像前には椅子などが並べられ慰霊祭の準備が始まっていました。
再開発工事が続く渋谷駅前は、フェンスなどが設置され道が判り難くなっています。たくさんの車が走る交差点は青山通りと六本木道路が分かれるところ、その上には首都高3号線の高架橋がかかっていました。
坂道を登ると金王八幡宮と豊栄稲荷神社があります。金王八幡宮は桓武平氏秩父氏の一族、河崎冠者基家の居城渋谷城があったところで、境内には金王丸を祀る社があります。金王丸は平安時代末期の武人で保元の乱では源義朝に従い出陣、平治の乱で義朝が敗れると出家し、土佐坊昌俊として義朝を弔ったと伝えられています。
境内の金玉桜は江戸郊外三名木として植え継がれた桜と言います。
明治通りには商和稲荷神社があります。小さいながら地元の商店街に崇拝された稲荷神社なのでしょう。
緩やかに坂道を登ると国学院の渋谷キャンパスです。明治に創立された皇典講究所を母体とする大学で、神社本庁の神職の資格が取れる神職課程がある大学です。神道系の大学と言うことで改装中でしたがキャンパスの中には國學院大學神殿という神社がありました。
近くには渋谷氷川神社があります。木立の中の大きな社で、明治通りからは長い参道、その途中には金玉相撲場がありました。
伊藤稲荷神社は小さな稲荷神社、その名の通り伊藤氏の邸内であった神社のようです。
明治通りを歩くとビルの中に福昌寺があります。コンクリート造りの都会の中のお寺です。境内には阿弥陀石棺仏がありました。近くの案内板によると古墳時代の石棺を転用して阿弥陀仏を掘ったものとか、初めて見る石棺仏でした。
渋谷橋の先は今が盛りの桜並木です。横断歩道橋の上からは白い並木道を見下ろすことができます。
お昼は駅近くの天丼てんやです。近くを流れる川は渋谷川、途中から古川と名前を変え東京湾に流れる川で、コンクリートの護岸で囲まれたまさに都会の河川というところです。
ここを右に折れると恵比寿駅です。ガードの下は恵比寿高架下壁画、若い芸術家が腕を競うところのようです。通りかかった海外のお客さんが恵比寿神社の壁画をバックに記念の写真を撮っていました。
たくさんの人で賑わう恵比寿駅、ここからは山手線の傍を歩くことになります。駅の喧騒を離れると小さなお店屋さんが点在するところです。交通の便が良いのか近くには高層住宅が建っていました。
住宅地の中に祀られた三田春日神社を過ぎると自動車学校があります。ビルの裏側は赤いガスタンクのような変わったデザインで最初は何の建物か判りませんでした。
さらに進むと目黒駅です。目の前の道路は白金台と等々力を結ぶ道路、多摩川を越え川崎へと続いているようです。
山手線に沿って続く道には背丈の高いマンションが目立つようになります。
徳蔵寺はビルの中のお寺、お寺の前には三輪地蔵や塩地蔵など古い石仏が祀られています。塩地蔵に供えた塩を持ち帰り、風呂に入れると諸病に効験があるとされていました。
徳蔵寺の先の通りは国道2号線、その上には首都高2号目黒線の高架橋が通っています。さらに進むと五反田駅です。その先は目黒川、この川沿いもまた満開の桜を楽しむ人で賑わっていました。
花筏を浮かべる川には観光客を乗せた遊覧船が下って行きます。船から見上げる満開の桜は一味違うのでしょう。
目黒川を分かれ僅かに歩くと大崎駅です。近くには居木神社と観音寺があります。居木神社はかつては居木橋近くにあった神社で、度重なる風水害で現在の地に移転したと言います。境内の桜の大木は満開を過ぎ緑の葉が目立つようになっていました。
天台宗の観音寺は目の前です。しかしビル工事のためのフェンスが張られているため入口が判り難く、大きく回り道をしなければなりませんでした。
今回の街歩きは観音寺をgoolにすることにしました。次回は大手町まで、途中では、山の手の内側にある7つの頂でまだ足跡を残してない日比谷公園の三笠山、標高7mに立ち寄りたいと思います。
保元元年(1156年)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝・平清盛らの武士団を招じ入れて戦い上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱はのちの武家政権成立への端緒をなした。
第77代の天皇、在位1155年7月24日~1158年8月11日。鳥羽天皇の第4皇子。即位の際、崇徳上皇と対立、保元の乱を生じた。二条天皇に譲位後、五代にわたって院政をおこない、平氏政権から鎌倉幕府権力の確立に至る変革期にあって朝廷権威の存続を巧みにはかった。1169年出家して法皇となり、造寺・造仏に尽くした。陵墓は京都府京都市東山区三十三間堂廻リの法住寺陵。
1118~1181年、平安末期の武将。平忠盛の長男。白河法皇の落胤とも伝えられる。父の地位と遺産を受け継いで政界に進出。保元の乱・平治の乱により対立勢力を一掃、従一位太政大臣となる。娘徳子を高倉天皇に入内させ官職を一門で独占、知行三十余国に及ぶ平氏政権を樹立した。
保元の乱(ほげんのらん)の後、平治1年(1159年)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。これ以後、平氏の政権が成立した。