北条政子が栄西を開山に迎えて創建され、鎌倉五山第三位の寺格を持つお寺です。栄西は日本に初めて臨済宗を伝えた人です。
境内は源頼朝の父、義明の屋敷跡で背後には源氏山を控えています。
境内は立ち入り禁止のため御朱印は山門の右手を入った納経所で受け付けていました。
本堂の裏手の墓地の中には源実朝と北条政子の墓と伝わる五輪塔がります。近くの山道は源氏山へと続いているようですが道標は判り難いようです。
大正から昭和初期にかけて設定された観音霊場で、江戸時代に成立した鎌倉郡三十三箇所をベースにされている。鎌倉郡三十三箇所と異なり、廃仏毀釈により廃絶・移転してしまった寺も存在した事から23箇所の霊場が新たに加えられている。
1番 大蔵山杉本寺、2番 金龍山宝戒寺、3番 祇園山安養院、4番 海光山長谷寺、5番 満光山来迎寺、6番 錦屏山瑞泉寺、7番 岩蔵山光触寺、8番 飯盛山明王院、9番 稲荷山浄妙寺、10番 功臣山報国寺、11番 帰命山延命寺、12番 中座山教恩寺、13番 稲荷山別願寺、14番 随我山来迎寺、15番 円龍山向福寺、16番 内裏山九品寺、17番 南向山補陀洛寺、18番 天照山光明寺、19番 天照山蓮乗院、20番 天照山千手院、21番 普明山成就院、22番 霊鷲山極楽寺、23番 大異山高徳院、24番 亀谷山寿福寺、25番 泉谷山浄光明寺、26番 扇谷山海蔵寺、27番 若昇山妙高院、28番 巨福山建長寺、29番 蓮菜山 龍峰院、30番 福源山明月院、31番 金宝山浄智寺、32番 松岡山東慶寺、33番 円覚寺仏日庵
1141~1215年、鎌倉初期の禅僧。日本の臨済宗の開祖。上房・千光国師と号す。比叡山で天台の教義を学び二度入宋し、臨済禅を伝え帰る。幕府の帰依をうけ鎌倉に寿福寺を建立。京に建仁寺を創建して天台・真言・禅の三宗兼学の道場とし禅宗の拡大に努めた。
1147~1199年 鎌倉幕府初代将軍。義朝の三男。平治の乱のち伊豆蛭ヶ小島に配流される。1180年以仁王もちひとおうの平氏追討の令旨に応じ挙兵。石橋山の戦いに敗れ安房に逃げたが東国武士の来援を得て関東を制し鎌倉にはいって根拠地とした。平維盛の追討軍を富士川に破り弟の範頼・義経を西上させ、85年壇ノ浦で平氏を討滅し全国を平定。全国に守護・地頭を設置、武家政治の基礎を確立。
六観音は六道輪廻の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもの。地獄道 - 聖観音、餓鬼道 - 千手観音、畜生道 - 馬頭観音、修羅道 - 十一面観音、人道 - 准胝観音、天道 - 如意輪観音とされる。天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。
明治元年(1868年3月)、明治政府によって出された神仏習合を禁じた命令。これにより全国に廃仏毀釈(はいぶつきしやく)運動が起り神社と習合していた寺院の仏堂、仏像、仏具などの破壊・撤去された。
1358~1408年、室町幕府三代将軍。足利義詮(あしかがよしあきら)の子。1378年室町殿造営。92年南北朝合一を成しとげ、有力守護大名を抑えて幕府権力を確立し1394年将軍職を義持に譲る。1397年北山に金閣寺を建て北山殿と呼ばれた。
保元の乱(ほげんのらん)の後、平治1年(1159年)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。これ以後、平氏の政権が成立した。
1147~1199年 鎌倉幕府初代将軍。義朝の三男。平治の乱のち伊豆蛭ヶ小島に配流される。1180年以仁王もちひとおうの平氏追討の令旨に応じ挙兵。石橋山の戦いに敗れ安房に逃げたが東国武士の来援を得て関東を制し鎌倉にはいって根拠地とした。平維盛の追討軍を富士川に破り弟の範頼・義経を西上させ、85年壇ノ浦で平氏を討滅し全国を平定。全国に守護・地頭を設置、武家政治の基礎を確立。