明月院は北条時宗が建立した禅興寺の塔頭です。禅興寺は明治初年に廃絶し明月院のみが今に残っています。
アジサイの名所として花の時期にはたくさんの観光客が行列を作るところとしても知られています。
境内には北条時頼公の廟や宝篋印塔、鎌倉十井の1つに数えられる瓶の井(つるべのい)があります。
明月院やぐら呼ばれる岩窟には北条憲方の墓とされる宝篋印塔や浮彫の釈迦如来と多宝如来がありました。
世の人々の音声を観じてその苦悩から救済する菩薩。人々の姿に応じて大慈悲を行ずるところから千変万化の相となるといいその姿は六観音・三十三観音などに表される。勢至菩薩とともに阿弥陀仏の脇侍となる。化仏のついた宝冠をかぶり、天衣、裙(くん)を着け、瓔珞、鐶釧(かんせん)で身を飾り蓮華を手にして蓮華座の上に立像または坐像の姿で表現される。
大正から昭和初期にかけて設定された観音霊場で、江戸時代に成立した鎌倉郡三十三箇所をベースにされている。鎌倉郡三十三箇所と異なり、廃仏毀釈により廃絶・移転してしまった寺も存在した事から23箇所の霊場が新たに加えられている。
1番 大蔵山杉本寺、2番 金龍山宝戒寺、3番 祇園山安養院、4番 海光山長谷寺、5番 満光山来迎寺、6番 錦屏山瑞泉寺、7番 岩蔵山光触寺、8番 飯盛山明王院、9番 稲荷山浄妙寺、10番 功臣山報国寺、11番 帰命山延命寺、12番 中座山教恩寺、13番 稲荷山別願寺、14番 随我山来迎寺、15番 円龍山向福寺、16番 内裏山九品寺、17番 南向山補陀洛寺、18番 天照山光明寺、19番 天照山蓮乗院、20番 天照山千手院、21番 普明山成就院、22番 霊鷲山極楽寺、23番 大異山高徳院、24番 亀谷山寿福寺、25番 泉谷山浄光明寺、26番 扇谷山海蔵寺、27番 若昇山妙高院、28番 巨福山建長寺、29番 蓮菜山 龍峰院、30番 福源山明月院、31番 金宝山浄智寺、32番 松岡山東慶寺、33番 円覚寺仏日庵
1251~1284年、鎌倉幕府八代執権。時頼の子。文永・弘安の両度の元寇に際し強硬に幕政を指導してこれを退けた。また禅宗に帰依して宋から無学祖元を招き円覚寺の開山とした。
六観音は六道輪廻の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもの。地獄道 - 聖観音、餓鬼道 - 千手観音、畜生道 - 馬頭観音、修羅道 - 十一面観音、人道 - 准胝観音、天道 - 如意輪観音とされる。天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。
大乗仏教の仏。西方の極楽浄土の教主で生あるものすべてをすくう仏様。念仏により浄土に往生できるという阿弥陀信仰が鎌倉時代にさかんになり、浄土宗、浄土真宗、時宗などの浄土教宗派が成立した。
阿弥陀如来像は質素な形で如来の通相と呼ばれる姿をしています。小指を除く三指と親指で輪にした九品来迎印(くぼんらいごういん)を結んでいるのが特徴です。
明治元年(1868年3月)、明治政府によって出された神仏習合を禁じた命令。これにより全国に廃仏毀釈(はいぶつきしやく)運動が起り神社と習合していた寺院の仏堂、仏像、仏具などの破壊・撤去された。
鎌倉時代、中国を支配していたモンゴル軍による日本侵攻。文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の2回があり、いずれも北部九州が戦場となった。弘安の役では約4400隻の元寇船が襲来し鷹島沖に集結したが停泊中に暴風雨に遭遇して多くが沈没したとされる。元軍を撃退したこの暴風雨は神風と呼ばれた。
鎌倉幕府は第8代執権北条時宗。文永の役後、博多湾沿岸の防備体制の強化、鎮西奉行の設置などを行なったため九州御家人には多大の軍事的、経済的負担を負わせ武士社会に深刻な状況を招いた。