1334年(建武元年)天岸慧広の開山により創建され、開基は足利尊氏の祖父足利家時とも上杉重兼とも言われています。
1438年(永享10年)の永享の乱では、鎌倉公方足利持氏の子義久がこの寺で自刃しています。
境内に孟宗竹の竹林があることから竹の寺とも呼ばれています。
報国寺を訪れたのは衣笠山から巡礼古道をたどったハイキングの途中でした。たくさんの参拝客でにぎわう山門には足利の引両紋の幕が張られていました。
境内に孟宗竹の竹林があることから竹の寺とも呼ばれています。
竹寺からは近くの報国寺に参拝しました。報国寺は鎌倉三十三観音霊場10番札所、聖観世音菩薩を祀るお寺です。
大正から昭和初期にかけて設定された観音霊場で、江戸時代に成立した鎌倉郡三十三箇所をベースにされている。鎌倉郡三十三箇所と異なり、廃仏毀釈により廃絶・移転してしまった寺も存在した事から23箇所の霊場が新たに加えられている。
1番 大蔵山杉本寺、2番 金龍山宝戒寺、3番 祇園山安養院、4番 海光山長谷寺、5番 満光山来迎寺、6番 錦屏山瑞泉寺、7番 岩蔵山光触寺、8番 飯盛山明王院、9番 稲荷山浄妙寺、10番 功臣山報国寺、11番 帰命山延命寺、12番 中座山教恩寺、13番 稲荷山別願寺、14番 随我山来迎寺、15番 円龍山向福寺、16番 内裏山九品寺、17番 南向山補陀洛寺、18番 天照山光明寺、19番 天照山蓮乗院、20番 天照山千手院、21番 普明山成就院、22番 霊鷲山極楽寺、23番 大異山高徳院、24番 亀谷山寿福寺、25番 泉谷山浄光明寺、26番 扇谷山海蔵寺、27番 若昇山妙高院、28番 巨福山建長寺、29番 蓮菜山 龍峰院、30番 福源山明月院、31番 金宝山浄智寺、32番 松岡山東慶寺、33番 円覚寺仏日庵
永享10年(1438年)鎌倉公方(くぼう)足利持氏(あしかがもちうじ)が将軍足利義教(あしかがよしのり)に対して起こした反乱。義教は今川氏らに討伐を命じ、持氏は鎌倉永安寺で自害した。この乱は持氏の遺子を奉じた結城合戦へと発展していく。
室町幕府が関東8ヶ国と伊豆、甲斐の支配を支配のため置いた鎌倉府の首長で鎌倉殿、鎌倉御所、関東公方、関東御所とも呼ばれます。足利尊氏の二男基氏(もとうじ)が貞和5年(1349年) 鎌倉に移ったのに始まり、氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ)、成氏(しげうじ)と世襲されました。康正1年 (1455年)年成氏が古河に移るまで続いきました。
明治元年(1868年3月)、明治政府によって出された神仏習合を禁じた命令。これにより全国に廃仏毀釈(はいぶつきしやく)運動が起り神社と習合していた寺院の仏堂、仏像、仏具などの破壊・撤去された。
永享12年(1440年)結城氏朝が下総結城城に鎌倉公方足利持氏の遺子春王、安王を奉じて幕府軍に抗した戦い。室町幕府は上杉憲実、清方を討伐に向わせ嘉吉元年 (1441年)年結城城は落ち氏朝は自害した。春王、安王も捕えられ美濃の金蓮寺で斬られた。
足利氏が京都に開いた幕府。1336年足利尊氏の建武式目制定をもって創始された武家政権。鎌倉幕府の制度・機構をほぼ継承して発足し、南北朝合体によって全国統一政権となった。しかし守護領国制の発展による地方分権化に対抗しえず、特に応仁の乱以降は、群雄割拠の戦国時代と化し1573年一五代義昭が織田信長に追放され滅亡。
1305~1358年、室町幕府の初代将軍(在職1338~1358)元弘の乱で建武の中興のきっかけをつくる働きをした。のち後醍醐天皇にそむき1336年光明天皇を擁立し室町幕府を開いて南朝と対立した。夢窓疎石に帰依し天竜寺などを建立。