御正体山は富士山の周辺の山を登るようになってから常に気になっていた山です。丹沢山塊のはずれに大きな稜線を広げ、あまり特長のない山にもかかわらず、遠くからもその山頂を見分けることができる山です。利用されている登山道も何本か開かれ、都留側の三輪神社、山中湖側の山伏峠、都留と道志の境にある道坂峠、それと今回利用する池ノ平から山頂を目指す道が開かれています。しかし何れの登山道も登山口までの交通の便が悪いことなどから、これまでその山頂を踏むことができずにいた山です。
この山はもともと御祖代山、三僧体山、三将台山などと呼ばれていたと言います。「太古に天照皇太神の御神霊を鎮め祭り、御祖代山と名付けたことから御祖代山」と、また「妙心上人が諸国行脚の後、鹿留村に来て、ここを修行の地と定めこの山を開山した。文化12(1815)年に入峰(入定)を決意し、山の上人堂に籠り断食、座禅して即身仏(ミイラ)となった。その後、妙善尼、巨戒上人が入山し信仰を広めたことから三僧体山」などというの言い伝えが残っている山です。
都留から鹿留川に沿って登っていく林道をしばらく走り虹の橋と呼ばれるアーチのそばに車を停ます。ここからは沢沿いの林道を登りはじめます。この付近の雑木林は今が紅葉の真っ最中。赤や黄色に色付いた山肌を緩やかに登っていくと小広い林道の終点にたどり着きました。ここからは雑木林の中をたどる登山道が始まります。やがて登山道は左手の尾根に向かい急な斜面を登って行きます。しばらく登ると視界も開け、振り返る目の中に大きな富士山が飛び込んできました。青空の下に7合目付近まで雪化粧したその姿は、何度見ても感動を抱かせてくれるものです。
しばらく登ったところが上人堂跡。小広い台地には堂跡の礎石が幾つか。傍の岩屋は妙心上人の入峰の跡と伝えられるところです。
上人堂跡からは、再び明るい稜線の登りに汗を流すことにします。やがて道は細くなった稜線を緩やかに登って行く道になります。すでに両脇の木々はすっかり葉を落とし、カサカサと枯葉を踏み分けながら登る道はなかなか気持ちの良いものです。なだらかな尾根道をしばらく登っていくと、三輪神社から登ってくる道を左手から合わせる峰宮の跡。今は小さな石造りの社が建っているだけです。
ここからも細い稜線を緩やかに登って行きます。稜線上の小さなコブを幾つか越え、抱付岩(べべいわ)といわれる岩場を巻くとまもなく御正体山の山頂です。小広い山頂はモミなどの林に囲まれ展望はまったく望めません。真っ赤な社と一等三角点を示す標柱が建っていました。
山頂で昼食の後、池ノ平の登山口に下ることにします。ガイドブックではシキリ尾根から鹿留林道に下る道があるようです。同じ道を戻るのも面白みがないと思いながらコメツガの林の中をしばらく下って行きました。しかし右手に見えるはずのシキリ尾根への登山道はなかなか見つかりません。気が付いたときには急な尾根道をかなり下ってしまったあとです。道端で地図を取り出してみると、ここから鹿留林道に下る道は石割山を越え二十曲峠へ。ここからは約4時間近くの山道をたどらなければならないようです。
枯葉を踏みしめながらたどる稜線はアップダウンが多いものの、心地よい尾根歩きの道です。細くなった稜線からは正面に逆光を浴びる富士山、右手には鹿留山や杓子山。その左肩には白く雪を被った御坂山隗の稜線を望むことができます。その右手に頭を持ち上げるのはアンテナを林立させた三ツ峠山の頂です。
前ノ岳、中ノ岳などと名付けられた山頂を越えながら尾根道を下って行きます。木立に覆われたそれらの山頂には標柱などもなく、気にしなければ通り過ぎてしまいそうな山頂です。やがて山伏峠への道を左に分けます。ここからはあまり人が入っていないようで、厚く積もった枯葉で、気を付けなければ道を踏み外しそうなところです。右手が谷に向かって崩壊しているところも何箇所かあります。やがて大きな送電線が尾根を横切ると、ほどなく石割山の山頂にたどり着きました。
目の前には山中湖の上に、逆光を浴びた大きな富士山がそびえています。手前の小さなコブは大平山。御正体山からここまでおよそ3時間。心地の良い尾根道とは言いながら、かなり長い道程です。
石割山で展望を楽しんだ後、二十曲峠に下って行くことにします。明るい稜線をたどる道は霜柱が融け滑りやすくなっています。
たどり着いた二十曲峠。数台の車が東屋の傍に停まっていました。この峠は白糸の滝や忍野などとともに、富士山のビューポイントの一つにもなっているところとか。数人が大きな三脚に中盤のカメラを載せ、夕日に映える富士山のシャッターチャンスを待っていました。ここから池ノ平へはおよそ2時間半の長い林道歩きです。目の前には紅葉に彩られた御正体山がつるべ落としに暮れる秋の夕日を浴びていました。