二子玉川駅11:00~五島美術館~上野毛自然公園~自制山覚願寺~玉川野毛町公園~六所神社12:00~影光山善養寺~セブンイレブン世田谷等々力1丁目店~瀧轟山満願寺別院(等々力不動尊)12:30/50~等々力渓谷~致航山満願寺~玉川神社~九品山浄真寺(九品仏)~自由が丘駅15:10
おもいはせの路は、国分寺崖線に沿って残る渓谷や、古墳、そして豊なみどりや水辺の風景をたどりながら歩く、7.6kmの散歩道です。矢沢川が土削った等々力渓谷は東京23区で唯一の渓谷と言われています。
たどり着いた二子玉川はかつて大山道の二子の渡しがあったところです。たくさんの人で賑わう駅前を過ぎると駒沢通です。緩やかに上って行く坂道は国分寺崖線、武蔵野台地が多摩川に土削られたところです。
やがて道を右に折れると関東富士見百景の一つ富士見橋です。東急大井町線が通る橋の上からは富士山が見えるということですが曇りがちな空の下からは二子玉川のビル群が見えているだけでした。
五島美術館は東急の元会長・五島慶太が蒐集した美術品を展示する私設美術館、展示品の変更のため休館になっていました。
幼稚園児の声が聞こえる覚願寺を過ぎると道は第3京浜の下をくぐり緩やかに下っていきます。途中には六所神社、善養寺があります。
善養寺は真言宗智山派のお寺でたくさんの石仏が祀られているところでした。石段には海駝(かいだ)という伝説上の生き物、獅子の頭に角を持ち 善良な人と邪悪な人を見分ける事ができると言われています。
その隣には武官石像と文官石像が立っています。朝鮮王朝の第9代王の墳墓、宣陵に似た石像があるようでが、真言宗の寺院とはどのような接点があるのでしょうか。本堂もまた唐風の塗装がなされておりなかなか変わったお寺のようでした。
多摩堤通りに沿った道をしばらく歩くと等々力坂です。広い道を左に折れしばらく上ると等々力不動尊です。関東三十六不動尊の一つで平安時代の末、新義真言宗始祖・覚鑁(かくばん)が本尊の不動明王像を安置して創建したとされています。
奉納旗がたなびく階段を下っていくと等々力渓谷、小さな不動滝には稲荷大明神が祀られています。修験道の行者はこの滝で身を清めていたのでしょう。
沢沿いに続く遊歩道はたくさんの人が歩いています。稚児大師御影堂の先には等々力渓谷の湧水、武蔵野台地に降った雨水が湧き出すところで「はけ」と呼ばれるところです。
また近くには7世紀のものという横穴墓があります。有力農民の埋葬地と推定され土器や耳飾りなどが出土されたと言います。
横穴墓から緩やかに上って行くと環八通りです。住宅地の中を歩きましたが渓谷沿いの遊歩道を歩いたほうが良かったようです。東急の等々力駅の先で道を右に分けると満願寺です。等々力不動尊は満願寺の別院と言います。
さらにその先には玉川神社がありました。世田谷城主の吉良氏が熊野三山を勧請した神社でかつては熊野社(おくまんさま)とも呼ばれていました。
世田谷吉良氏は奥州探題吉良定家の家系を継ぐ一族で吉良成高の時代に世田谷城を構え土着しました。江戸時代には徳川家康に従い高家として取り立てられ蒔田氏に改名しました。赤穂浪士の仇討で知られる吉良義央は三河に本拠を持つ西条吉良氏、赤穂事件ののち西条吉良氏の家系は断絶したと言います。
ここからは住宅地の道をしばらく歩くと九品寺の参道です。広い松並木の中には庚申塚などのほか古い石仏がありました。
九品寺は浄土宗のお寺、観無量寿経によると人の往生には生前の行いにより上品・中品・下品の三品(さんぼん)、さらにその各々に上生・中生・下生があり、九品往生があるとされています。
境内の下品堂、上品堂、中品堂には各々3体の阿弥陀如来が祀られ往生する人を導くと言います。阿弥陀如来が結ぶ印相もまた違っているようです。
大きな本堂には大きな釈迦如来が安置されていました。
ここは奥沢城があったところと言います。奥沢城は吉良頼康により築かれた城で世田谷城の出城として用いられました。境内には当時の土塁があると言いますが、往時の面影を見付けるのはなかなか難しそうです。
帰りは九品仏川緑道をたどり自由が丘駅へ、たくさんの人で賑わう駅前の商店街には洒落たお店屋さんが建ち並んでいます。パン屋さんやピザ屋さんなど若者向きのお店屋さんが多かったようでした。