安産祈願の神様が祀られており「安産・子育ての神様」として広く関東一円より人々の信仰を集めてきました。
《水天宮・杉山神社の由緒》ホームページ
「水天宮」は横浜が吉田新田開発の頃、度々水害に悩まされた為、貞享年間(1684年~1687年)に久留米より現在の長者町の辺りに水天宮の御分霊を勧請奉斎し、水害の守護神として祀られていました。
明治の初め、河野与七がこの地を開拓するにあたり旧体を発見し、社殿を建立して再興すると、安産・子育ての守護神として広く関東一円より人々の崇敬を集めました。
しかし、昭和20年5月29日横浜大空襲により全焼。境内地も米進駐軍に接収されてしまいました。その後は、杉山神社の氏子内にあった河野与七の子孫の屋敷に仮社殿を造営し奉斎し、氏神杉山神社の神官により祭事を執り行ってまいりましたが、奉祀の継続が困難になり、平成10年氏神社である杉山神社に相殿神として迎えられ、合祀される事となりました。
それ以降「太田杉山神社」と一緒にお祀りされているのが「横濱水天宮」でございます。
「杉山神社」は旧太田村の総鎮守として祀られ、古来より火防の霊験あらたかな神社として延喜式にもその名が見られ、崇められてまいりました。
創始は不明ですが、日本武尊の東征の経過の地は、平和な生活が出来るようになった為、そのご功績を称え此の地に奉祀されたものと思われます。
永和2年6月(1376年)に益田大江助が社殿を再建した棟札等が遺されていましたが、水天宮と同じく横浜大空襲により文化7年御造営の社殿を始め社務所から境内の樹木に至るまで全てを焼失してしまいました。しかし、戦火中と雖も祭祀はゆるがせに出来ないと、仮社殿を急造し奉祀を続け、終戦となり、氏子の総力を以てまだ氏子地域内はバラックが建ち並ぶ昭和33年、境内地の整地から社殿の造営が行われ戦災復興が氏子の希望として完成されました。
第81代天皇(在位:1180年2月21日~1185年3月24日)高倉天皇の皇子。母は平清盛の娘建礼門院徳子。2歳で即位、平宗盛に擁せられて西国に落ち、壇ノ浦で平氏一門とともに入水した。陵墓は山口県下関市阿弥陀寺町の阿弥陀寺陵。
日本の古代史における伝承上の英雄。景行天皇の皇子です。気性が激しいため天皇に敬遠され、九州の熊襲(くまそ)や東国の蝦夷(えぞ)の討伐に遣わされたといわれています。風土記なども含めてさまざまな伝説が残っています。
天地のはじめに天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)、神皇産霊尊(かみむすびのみこと)とともに高天原にあらわれた造化三神の一神。天照大神(あまてらすおおみかみ)とともに高天原を主宰する。
天地開闢(てんちかいびゃく)のときに高天原に出現し万物生成化育の根源となった三神。天御中主神(あまのみなかぬしのかみ)、神皇産霊神(かみむすひのかみ)、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の三神で性別を持たないとされます。
第80代天皇(在位:1168年2月19日~1180年2月21日)後白河天皇第7皇子。在位中は平清盛の隆盛時にあたりその娘徳子を中宮とした。陵墓は京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山町の後清閑寺陵。
1118~1181年、平安末期の武将。平忠盛の長男。白河法皇の落胤とも伝えられる。父の地位と遺産を受け継いで政界に進出。保元の乱・平治の乱により対立勢力を一掃、従一位太政大臣となる。娘徳子を高倉天皇に入内させ官職を一門で独占、知行三十余国に及ぶ平氏政権を樹立した。
第12代天皇(在位:71年7月11日~130年11月7日 )垂仁天皇の第三皇子。都は大和の纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)。熊襲くまそを征討し、皇子の日本武尊(やまとたけるのみこと)を派遣して蝦夷を平定したという。陵墓は奈良県天理市渋谷町の山辺道上陵。