河村城は平安時代末期に藤原秀郷の流れをくむ河村秀高によって築かれたとされています。
河村秀高の子義秀は、源頼朝の石橋山挙兵の際、平氏方に属して領地を没収されたが、鎌倉での流鏑馬の妙技により本領の河村郷に復帰できたと吾妻鑑にあります。
南北朝時代に入ると、河村氏は新田氏に協力し南朝方につき、北朝方の足利尊氏と対峙し河村秀国・河村秀経らは新田義興・脇屋義治とともこの城に立てこもり、畠山国清を主将とする足利尊氏軍の攻撃をしのいだとされる。しかし南原の戦いで敗れ落城し河村一族の多くは討死しました。
その後は、畠山国清や関東管領上杉憲実を経て、足利持氏の属将、大森憲頼(氏頼の弟)の支配するところとなります。
戦国時代に入ると後北条氏の支配を受けるようになり、武田信玄の小田原侵攻の際には補強されました。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐で、この城も落城し廃城となりました。
河村城には北側、国道246号線から登るもの、東側八幡神社側から河村城展望広場へと登るもの、南側から細い道を登るものがあります。今回登った南側の道は洒水の滝へのハイキングコースとなっているようですがあまりお勧めでない道のようです。
河村城址歴史公園として整備された一帯には発掘調査などの説明もあります。後北条氏によって改修補強されたことを示すように堀切には障子掘りも見ることができます。神奈川県の山城としては初めて県指定史跡となりました。
《河村城の案内板》 山北町教育委員会生涯学習課
南北朝時代の記録にも残る河村城は、戦国時代には小田原北条氏の出城でした。地理的に、北の甲斐国、西の駿河国から足柄平野へ至る北東端の入口部分に当たり、戦略上、重要な城であったと考えられます。
現在の御殿場線辺りを江戸時代中ごろまで流れていた皆瀬川と、南の酒匂川とに挟まれた標高約225mの独立丘陵上に、自然地形を活かし、郭や堀切を配した、山城です。