小机城(飯田城) 


 城郭の構造:連郭式平山城
 築城の時期:永享年間(15世紀前半)上杉氏か
 廃城の時期:文明10年(1478年)、天正18年(1590年)
 主な城主:上杉氏、長尾氏、笠原氏、後北条氏
 所在地:神奈川県横浜市港北区小机町789
 訪問日:2023年5月16日

 

長尾景春の乱のうち文明10年(1478年)に起きた攻守戦、山内上杉家の家宰であった長尾景春が主家に対する反乱を起こしました。景春の味方をした豊嶋氏が小机城に立てこもり、太田道灌が攻撃をしました。このとき小机城は約2か月で落城し廃城となります。

その後この地域が後北条氏の勢力下に入ると北条氏綱の手により修復され、家臣の笠原信為が城主として配置され小机衆が組織されました。城主は北条氏堯、北条氏政の弟三郎、北条氏光と替わっています。

小机城の案内図
判り難い小机城への道
根古屋広場にトイレ
竹林の中の登っていきます
本丸を取り囲む空堀と土橋
深い空堀
空堀の中にも踏みあと
空堀が続きます
郭に小さな社
空堀の案内板
二ノ丸広場への登り
本丸と二ノ丸間に空堀
階段を登ると櫓台
広い二ノ丸広場
二ノ丸の南側には井戸が
本丸を囲む土塁
本丸の土橋
本丸を囲む空堀
市民の森の利用案内
中世の城の案内板
本丸に市民の森の案内板
本丸の案内板
本丸の冠木門
本丸を囲む空堀
富士仙元は高速道路の先

天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際には小机衆は小田原城に入場したため城攻めは行われず無傷のまま落城しました。その後、徳川家康の関東入府のときに廃城とされました。

小机城の跡は小机城址市民の森として整備され本丸、二の丸跡、空堀、土塁など城の遺構が整備されています。現地の案内では西側の郭を本丸、東側の郭を二ノ丸としていますが西側が本丸という説もあるようです。

本丸の西側の一部は、第三京浜道路の建設の際に分断されました。毎年春には小机城址まつりが開催されます。

 

関連記録・コース

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 小田原征伐(おだわらせいばつ)・小田原攻め(おだわらぜめ)北条征伐(ほうじょうせいばつ)

1590年豊臣秀吉が天下統一のため小田原の北条氏(後北条氏)を滅ぼした戦い。秀吉は兵農分離による組織化された軍事力と強力な物量作戦を展開し、関東の北条氏の支城を次々と落とし本城小田原城を3ヵ月余にわたり攻囲・降伏させた。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 明智光秀(あけちみつひで)

1528~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。美濃の生まれ。織田信長に重用されたが、1582年6月2日、京都本能寺に信長を襲い自害させた。山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ逃走中土民に殺された。

 

 柴田勝家(しばたかついえ)

1522~1583年、安土桃山時代の武将。織田信長の臣。越前北ノ庄に拠って北陸を支配。本能寺の変後、豊臣秀吉と対立、賤ヶ岳の戦いに敗れ北ノ庄で自害した。

 

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