北条早雲が堀越御所の足利茶々丸を滅ぼしたのちその本拠として築城した山城です。北条氏が小田原城を本拠地とした後も有力支城として存在し続けていました。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めにおいては織田信雄、蒲生氏郷、福島正則ら4万を超える軍勢に包囲されたが要害堅固の韮山城は容易に落ちなかったと言います。
小田原落城後、北条氏は韮山城主だった氏規が継承し、江戸時代には狭山藩を与えられ明治維新まで存続しています。
城池公園から堀切道を登って行くと韮山高校のグランドです。この周辺はお座敷と呼ばれたところです。ここからは権現曲輪、二ノ丸、本丸、塩蔵址まで曲輪や空掘が残っていました。
1432~1519年、室町後期の武将。後北条氏の祖。初め伊勢新九郎長氏と称し出家して早雲庵宗瑞と号す。駿河の今川氏を頼って次第に頭角を現した。のち堀越公方の足利茶々丸を倒して伊豆韮山にらやまに進出した。小田原を本拠として南関東制覇の基礎を築いた。
1432~1519年、室町後期の武将。後北条氏の祖。初め伊勢新九郎長氏と称し出家して早雲庵宗瑞と号す。駿河の今川氏を頼って次第に頭角を現した。のち堀越公方の足利茶々丸を倒して伊豆韮山にらやまに進出した。小田原を本拠として南関東制覇の基礎を築いた。
1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。
天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。
1590年豊臣秀吉が天下統一のため小田原の北条氏(後北条氏)を滅ぼした戦い。秀吉は兵農分離による組織化された軍事力と強力な物量作戦を展開し、関東の北条氏の支城を次々と落とし本城小田原城を3ヵ月余にわたり攻囲・降伏させた。
1558~1630年、安土桃山・江戸初期の武将。織田信長の次男。豊臣秀吉と小牧・長久手で戦ったがその後に和睦。大坂の陣では徳川家康に味方し、大和国宇陀郡松山に5万石を与えられた。
1561~1624年、安土桃山・江戸初期の武将。豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳七本槍の筆頭となった。1595年、尾張清洲24万石城主。関ヶ原の戦いでは徳川方先鋒。戦後、安芸広島50万石の城主。のち城修築の件で所領を没収され信濃に蟄居、病死した。
伊勢宗瑞(北条早雲)を始祖とし、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名。北条早雲は1476年(文明8年)に今川家内紛の調停役として歴史の舞台に登場した。
やがて駿河の興国寺城主となり、1491年(延徳3)には足利茶々丸を討って伊豆を平定し韮山城に移る。1495年(明応4)小田原城に大森藤頼を攻めてこれを奪い関東進出の第一歩をしるした。
古河公方に対抗するため上杉氏は幕府に新たな鎌倉公方の下向を求めました。幕府は将軍義政の弟足利政知(あしかがまさとも)を東下させましたが、鎌倉に入ることができず伊豆の堀越に御所を構えました。
延徳3年(1491年)あとを継いだ子の茶々丸が北条早雲に攻められ滅亡。
伊勢宗瑞(北条早雲)を始祖とし、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名。北条早雲は1476年(文明8年)に今川家内紛の調停役として歴史の舞台に登場した。
やがて駿河の興国寺城主となり、1491年(延徳3)には足利茶々丸を討って伊豆を平定し韮山城に移る。1495年(明応4)小田原城に大森藤頼を攻めてこれを奪い関東進出の第一歩をしるした。
古河公方に対抗するため上杉氏は幕府に新たな鎌倉公方の下向を求めました。幕府は将軍義政の弟足利政知(あしかがまさとも)を東下させましたが、鎌倉に入ることができず伊豆の堀越に御所を構えました。
延徳3年(1491年)あとを継いだ子の茶々丸が北条早雲に攻められ滅亡。
1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。
1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。
天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。
1528~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。美濃の生まれ。織田信長に重用されたが、1582年6月2日、京都本能寺に信長を襲い自害させた。山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ逃走中土民に殺された。
1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。
1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。
天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。
1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成を関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。
1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。
天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。
慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。