大庭御厨は鎌倉景政(権五郎景正)により開拓され伊勢神宮に寄進された荘園でした。その子孫は大庭氏と称し大庭景宗が大庭荘を本拠とし大庭の舘を建てたとされています。
室町時代中期には扇谷上杉氏の太田道灌が本格的な築城を行いそののち北条氏が改修を行ったとされています。
玉縄城を築城すると利用価値は低くくなり北条氏が滅ぶと廃城になりました。
大庭城一帯は広い公園となっています。公園内には空堀の跡が残っていますが当時の面影はありません。館跡広場には館の礎石として石が並べられていましたが詳細は不明のようです。
上杉重顕を始祖とする上杉氏諸家の一つ。戦国時代には河越城に本拠を移し、武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を扶植した。山内上杉と並び両上杉と称されるが、関東管領を務めたことはない。鎌倉の扇谷に屋敷を置いたことが家名の由来。
1432~1486年、室町中期の武将。上杉定正の執事となり江戸城を築城。山内上杉家の内紛を鎮圧したが、かえって扇谷上杉家の勢力増大を恐れた山内上杉顕定(あきさだ)方の讒言により、主君定正のため謀殺された。兵法に長じ、和漢の学問や和歌にもすぐれた。
平安時代後期の武将、八幡太郎義家として知られる。比叡山等の強訴の頻発に際しその鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍する。前九年の役で父を助けて安倍氏を討ち後に陸奥国守となった。清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こした。東国における源氏勢力の基盤をつくった。
平安後期の1083年から1087年、奥羽の豪族清原氏が起こした戦乱。清原氏内部の相続争いが発端であったが、陸奥守として下向した源義家が清原清衡(藤原清衡)とともに、清原家衡・武衡を金沢柵(かねざわのさく)に下して平定した。これにより清衡は平泉における藤原三代の基をつくり、義家は東国に源氏の勢力基盤を築いた。