藤原資盈は清和天皇の後継者争いで讒訴され、864年(貞観6年)筑紫国へ赴く途中に暴風に遭遇し三浦半島に漂着しました。
その後、土地の長に推戴され房総の海賊を平定するなどして地元民から尊崇されました。866年(貞観8年)に資盈が没すると、地元民は祠を建てて祀り982年(天元5年)には社殿が建立され、三浦郡の総社となりました。
三浦為継は社領を寄進し社頭を改築しのちに三浦家の祈願所としました。三浦大介義明は参拝の折、神事狐合(白と赤の狐が闘い、白狐が勝った)で源平の争覇を占い、源頼朝側に荷担したと伝えられています。境内には頼朝公手植えと伝えられる公孫樹(樹齢約八百年)が神木として保存されています。
社殿傍に祀れた大きな社は海南高家神社。景行天皇が日本武尊、東征の跡を偲んで、三浦半島から安房上総に巡行された時、天皇の料理賄方を司った磐鹿六雁命を祀っています。料理の祖神として知られる神様です。
参道は初詣の参拝客でにぎわいコロナの感染拡大が嘘のようです。
三浦市内に点在する五つの寺院と二つの神社を順拝する全長26Kmの七福神めぐりです。昭和40年(1965)に三浦市観光課と共同で創立されました。
1番福禄寿・妙音寺、2番恵比寿・円福寺、3番毘沙門天・慈雲寺、4番弁財天・海南神社、5番布袋尊・見桃寺、6寿老人・白髭神社、7番大黒天・延寿寺
第12代天皇(在位:71年7月11日~130年11月7日 )垂仁天皇の第三皇子。都は大和の纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)。熊襲くまそを征討し、皇子の日本武尊(やまとたけるのみこと)を派遣して蝦夷を平定したという。陵墓は奈良県天理市渋谷町の山辺道上陵。
日本の古代史における伝承上の英雄。景行天皇の皇子です。気性が激しいため天皇に敬遠され、九州の熊襲(くまそ)や東国の蝦夷(えぞ)の討伐に遣わされたといわれています。風土記なども含めてさまざまな伝説が残っています。
第10代の天皇(在位:前97年1月13日~前30年12月5日)開化天皇の皇子。記紀によれば四道(しどう)将軍を派遣して大和朝廷の領域を広げ国家の財政制度を確立したという。陵墓は奈良県天理市柳本町の山辺道勾岡上陵。実在が確かな最初の天皇とされされ以前の天皇を欠史八代と言う。
日本の古代史における伝承上の英雄。景行天皇の皇子です。気性が激しいため天皇に敬遠され、九州の熊襲(くまそ)や東国の蝦夷(えぞ)の討伐に遣わされたといわれています。風土記なども含めてさまざまな伝説が残っています。
第12代天皇(在位:71年7月11日~130年11月7日 )垂仁天皇の第三皇子。都は大和の纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)。熊襲くまそを征討し、皇子の日本武尊(やまとたけるのみこと)を派遣して蝦夷を平定したという。陵墓は奈良県天理市渋谷町の山辺道上陵。