上岩下8:55-蚕影山神社9:10-557m峰9:25/30-(道間違い)-御霊分岐9:50/10:00-くらご峠10:40-447m手前10:55/11:15-鷹取山登山口11:40-鷹取山12:10/35-376m稜線13:05/15-小渕山13:35-岩戸山14:05/30-藤沢神社14:50-藤沢駅15:00
藤野から生藤山へと登って行く尾根には岩戸山や鷹取山という小さな頂があります。これらの頂は藤野十五名山に選ばれている頂で最近は登る人も多くなっているようです。
山の会の仲間に誘われた今回の山行は新ハイキングにも藤野の藪山として紹介されていると言います。
富士急山梨バスの上岩下バス停からは集落の中の急坂を登って行きます。浄禅寺を左に見ながら登る舗装道路が切れるとジグザグを切りながら登る山道が始まります。視界が開けた山並みの上には富士山も頭を出していました。
蚕影山神社は養蚕が盛んな地域に祀られている神社で、その名の通りこの地域でも養蚕が盛んであったようです。かつて甲州商人と呼ばれる絹糸商人が甲府の絹を貿易港として開港された横浜に運んでいたと言います。ここもまた富岡製紙工場などとともに明治期の日本の輸出産業を支えていた地域の一つであったのでしょう。
登山道は蚕影山神社の裏手から樹林帯の中を登って行きます。薄い踏み跡をたどる道は557mのコブの脇にたどり着きました。ここから左手の斜面を下り始めましたが道は御霊へと下って行く道のようです。
途中から598.5mのピークへと登って行く道があるはずでしたが判りません。557mのピークから続く稜線に登り返し道を右へ。598.5mのピークへのふみ跡を右に分け巻道を進むと生藤山へと登って行く登山道にたどり着きます。
道端には下岩へ50分の道標が落ちていました。ここからは尾根通しに樹林帯の中を下って行きます。途中、防火用水の置かれた分岐で御霊への道を右に分け尾根通しに下って行きます。やがて檜の樹林帯の中を下って行くとふみ跡が薄くなりますが程なくらご峠にたどり着きました。
石仏や石祠が祀られた暗い峠は御霊と鎌沢を結ぶ生活の道であったようです。大助号と刻まれた馬頭観音の石碑がありましたがこれも峠を行き来した馬の慰霊碑なのでしょう。
くらご峠からは447mのピークを越えて鷹取山登山口へ向かうことにします。くらご峠の東側から続く山道はすぐに行き止まりになります。薄いふみ跡を拾いながら斜面を登ると雑木林の稜線にたどり着きました。
尾根道を進むと447mのピーク、地形図にはこの先は崖のマークであったので右手のふみ跡を下りましたが杉林の中を急な下りです。道路沿いの民家のお爺さんに猿が出たのかと思ったと言われてしましました。話では左手のふみ跡の先に慰霊碑があるのでそちらから下れば良いようでした。
集落の中の小路は大きな老人福祉施設の脇を通り鷹取山の登山口へ。道端には早いものでフキノトウが顔を出していました。
登山口からは明るい雑木林の中の尾根道が始まります。ハイキングコースとして整備されているようで道もしっかりと整備されています。落ち葉を踏みしめながら登って行く坂道をしばらく登ると小さな石祠、さらにしばらく登ると鷹取山の山頂にたどり着きました。
ここはのろし場の跡と言います。ネットなどによると武田家の家臣小山田信茂が守備していたとされ北条氏に対する最前線の見張り場だったようです。中央道の談合坂も北条氏と武田氏が和議調停の場であったと言う説もあるようでこの付近は戦国時代の歴史の匂いが残るところのようです。
山頂で見かけたチョウはエルジタテハとか。羽の先のL字の模様が特徴と言います。チョウの中には越冬するものもいるようで、日だまりを求め石の上に羽を休めていました。
ここからは小さなこぶが続くハイキングコースです。途中には巻道と周辺の集落へ下って行く道が混在しています。巻道と思い迂闊に尾根を外すと道を間違いそうなところもあります。
小渕山のピークからしばらく進むと小さな岩場があります。さらに進むと道は右に折れ送電鉄塔の巡視路をたどるようになります。
たどり着いた岩戸山の山頂は丹沢方面の視界が広がる小さな広場です。目の前には大きな大室山と檜洞丸、その左手には東海自然歩道が通る黍殻山から袖平山の稜線、その間に蛭ヶ岳の山頂も見えているようでした。
緩やかなハイキングコースは送電線の下を緩やかに下って行きます。視界の開けるコースはパノラマコースと呼ばれるところで藤野の街並みの先にはハートマークが目立つ緑のラブレター、正面の無名峰の左手は石老山の稜線が見えていました。
中央道を走る車の騒音が近づくと藤野です。左手の藤野神社に立ち寄ってから中央道をくぐると陣馬山から下ってきたハイカーが電車を待つ藤野駅にたどり着きました。