八甲田山は本州最北端に位置する日本百名山の山です。またヒナザクラの咲く山として花の百名山にも紹介された山です。八甲田山を有名にしたのは新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』です。今から100年程前、ロシアとの戦争が現実のものとなっていた時代のこと、陸軍の歩兵連隊が陸奥湾に上陸するロシア軍を迎え撃つための雪中訓練の最中に遭難。210名の連隊の中で生存者は17名と言う悲惨な歴史がこの地で展開されたと言います。
八甲田山の秋は錦をまとうように艶やかですが、ひとたび冬将軍が訪れると、人を寄せ付けない厳しさを持っているようです。
酸ケ湯温泉脇の大きな駐車場に車を停め、仙人岱から八甲田大岳を目指すことにします。小さな木の鳥居が立つ登山口からは鬱蒼とした広葉樹の林の中を登る登山道が始まります。夜露でしょうか薄暗い登山道は水気を含み、まだ気温も上がっていないのにもかかわらず、すぐに汗が滴り落ちてきます。大きな岩や木の根がうるさい登山道は緩やかに高度を上げていきます。
やがて登山道は地獄湯ノ沢に沿った岩混じりの急坂を登っていきます。近くに火山ガスが噴出しているとこるがあるようで、微かに硫黄の匂いが鼻を突きます。しばらく登ると登山道は沢を離れ、ハイマツや笹に覆われた明るい稜線を登って行くようになります。やがて木道が現れると仙人岱です。かっては高山植物が咲く湿原であったようですが登山者に踏み荒らされ、今では草も生えていない裸の地面が広がっています。湿原の右手には赤い屋根をした仙人岱ヒュッテが建っていました。更に木道を進むと木枠で囲まれた水場があります。コンコンと湧き出す水はとても冷たく、渇いた喉に染み透る美味さです。
仙人岱からは八甲田大岳に向かうこととします。付近一帯は高山植物の咲き乱れるお花畑です。やがて登山道は湿原を離れ、沢沿いの斜面を登って行くようになります。しばらく登ると登山道はアオモリトドマツの林の中を登る急坂に差し掛かります。真っ青に色付いたアオモリトドマツのマツボックリの先に、南八甲田の乗鞍岳や赤倉岳などが見えています。しばらく急な登りに息を切らせると森林限界を超え、岩屑に覆われた坂道を登って行くようになります。視界も広く開け左手には岩木山が霞んだ姿を見せています。山頂直下には鏡池と言う小さな池があります。爆裂火口に水が溜まったもので、水溜りにはモリアオガエルやクロサンショウウオが住んでいると言います。
鏡池からは八甲田大岳の山頂に向かい最後のひと登り。小さな社が建つ階段を登ると広く開けた八甲田大岳の山頂です。大きなケルンの建つ山頂からは遮るもののない360度の広い展望が目を楽しませてくれます。目の前には大きな噴火口が口を開ける井戸岳。その左手には八甲田ロープウェイの山頂駅とそれから広がる田茂范湿原。その奥には霞んだ青森の町並みが広がっていました。
目を左に向けると大きな岩木山がそびえています。ここから眺める岩木山は津軽平野に大きな裾野を広げそびえたつ山。まさに津軽富士という名前が良く似合う山です。更に降りかえると南八甲田の乗鞍岳の奥に岩手山が青く霞んでいました。
八甲田大岳の山頂には大きな爆裂火口跡が口を明けています。八甲田山は過去5,000年ほどの間に7回ほどの噴火を繰り返したと言われています。明確な噴火の歴史は持っていないようですが、そのうち最初の数回はこの噴火口からの噴火であったとか。最近の噴火は江戸時代。登山口の脇にある地獄沼で水蒸気爆発が起こったと言います。
八甲田大岳からは井戸岳、赤倉岳を越えて毛無岱に向かうことにします。山頂からは岩屑に覆われた急な坂道を下っていきます。たどり着いた鞍部には大岳ヒュッテが建っていました。ここから左に折れる道は毛無岱に下る道。井戸岳へは正面の階段状の急坂を登って行きます。
木の階段が続く急な登山道をひと登りすると井戸岳の火口壁の上にたどり着きました。目の前には大きな噴火口が口を明けています。直径200メートル、深さ60メートルという噴火口は熔岩の噴出により陥没したものとか。噴火から長い年月が立っているのか火口底にまで草木が生えています。噴火口の火口壁に沿って進むと小さなケルンが積まれた井戸岳の山頂にたどり着きます。ここの付近の登山道にはイワブクロが咲くと言います。タルマエソウの別名を持つこの花は北海道ではごくあたりまえの花。しかし本州の山ではあまり見かけたことがありません。
井戸岳からは明るいハイマツの稜線を赤倉岳へと登っていきます。まだ8月の末にもかかわらずナナカマドの実がほんのりと色付き始めていました。
たどり着いた赤倉岳の山頂には小さな社が建っていました。ここから眺める赤茶けた岩壁は赤倉岳の爆裂火口。磐梯山のように山体が崩壊した跡でしょうか。火山のエネルギーの恐ろしさをまざまざと見せつける眺めです。右手が切れ落ちた赤倉岳の火口壁を回ると田茂范岳への下りが始まります。ここからはゴードラインと言われる湿原をめぐる遊歩道や八甲田ロープウェイの山頂駅を見下ろすことが出来ます。
ここからは岩まじりの急な坂道を下って行きます。やがて毛無岱への分岐点。ここで道を左に。しばらくは雑木林の斜面を下っていきますが、やがて登山道は岩まじりの荒れた道に変わってきます。木の階段などが整備されたところもありますが段差が大きくかなり荒れた下りです。
幾つかの沢を越えると上毛無岱です。たどり着いた湿原には目立った花を見つけることはできません。数週間前までは湿原を黄色に埋め尽くしていたキンコウカも、今は枯れた花柄が風に揺れているだけです。
上毛無岱からは下毛無岱に下ることにします。右手にはアオモリトドマツに覆われた田茂范岳。風に乗ってロープウェイ駅からのアナウンスも聞こえてきます。笹に覆われた湿った道を下ると、下毛無岱への長い木の階段が始まります。
広く開けた下毛無岱の湿原には小さな池塘が点在しています。「豪華な絨毯を敷いたようなその原には、可憐な沼が幾つも点在し、その脇には形の良いハイマツが枝を広げている。周囲には背の低いアオモリトドマツが風情を添え、その結構な配置といい、背景の効果といい、まことに神の巧みを尽くした名園のおもむきがある。」とは深田久弥の日本百名山の一節。毛無岱はまさに八甲田の山上に広がる日本庭園と言ったところです。
下毛無岱からは酸ヶ湯温泉に向かって明るい雑木林の中を下っていきます。やがて斜面の下から観光客の喧騒が近づいてくると酸ヶ湯温泉の大きな建物がその姿を現してくれました。
車にリュックザックを置いた後、酸ヶ湯温泉で汗を流していくことにします。古びた総ヒバ造りの温泉は有名な千人風呂。脱衣所は男女別々ですが中は混浴です。北海道の昆布温泉やラジューム温泉も混浴でしたが、東北にも混浴の温泉が残っているようです。白濁した熱めの温泉は酸ヶ湯の名前のとおりかなり強い酸性のお湯です。山の疲れも毛穴から抜けていきそうです。
八甲田大岳の山麓は夏の山を彩る高山植物のお花畑。すでに花の時期は過ぎているようですが目に付く花だけでも湿原でお馴染みのタチギボウシ、白いウメバチソウやイワオトギリ、ヨツババシオガマ、エゾシオガマ、ミヤマリンドウなど・・・。草原の中にはお馴染みのコバイケイソウやミヤマキンポウゲなども咲いています。八甲田山に咲く大型のヨツバシオガマは特にハッコウダシオガマと呼ぶと言います。北海道には大型のキタヨツバシオガマなどもあります。ヨツバシオガマも地域による変化が大きい花のようです。
仙人岱は東北の尾瀬と言ったところです。すでに花の時期は過ぎ目立つ花は咲いていません。8月の始めに湿原を黄色に染めていたキンコウカもわずかに花柄が残っているだけです。
早いもので湿原のオオカメノキやナナカマド、ミヤマハンノキは紅葉が始まっていました。もう1ヶ月もするとこの付近は真っ赤な紅葉に彩られるのでしょう。