深川不動堂は成田山新勝寺の東京別院です。江戸時代の中期、歌舞伎役者の市川団十郎が成田不動尊利生記などの芝居を演じ大当たりを得たことから成田山の不動信仰が庶民に定着、富岡八幡宮の別当である永代寺で出開帳が行われたのが始まりとされています。
明治時代の神仏分離令で永代寺は廃寺となりましたが、明治14年(1881年)深川不動堂として本堂が完成したと言います。
永代寺は高野山真言宗のお寺で江戸時代には多くの参拝者で賑わったところと言います。門前仲町の地名の由来ともなったお寺です。
成田山の赤い門が建つ人情深川ご利益通りは和菓子店、甘酒店、京漬物店などが建ち並び正月の参拝客で混雑していました。たどり着いた大香炉の先は階段規制が行われていました。
深川不動堂の扁額を掲げる旧本堂は関東大震災と第二次世界大戦により焼失してしまった本堂に変わり、印旛沼の龍腹寺の地蔵堂を移築したものとか、暗い本堂の中にはお願い不動と言う大きな不動尊が祀られていました。
現在の本堂は真言梵字の外壁に囲まれた新しい建物で、開創310年記念事業として建立されました。本尊ならびに両童子、四大明王が祀られていると言いますがこちらの参拝客はあまり多くないようでした。
境内には古い開運出世稲荷社が祀られていました。赤い奉納旗が建ち並ぶ小さな境内の奥には願掛けきつねが供えられた小さなお堂がありました。
真言宗の新義真言の一派。宗祖覚鑁(かくばん)は真言宗の教義に念仏を加味し、高野山の大伝法院にあって布教に努めた。その教勢が高野本山をしのいだため紛争を生じ1140年円明寺を開いて分立した。
五大明王・八大明王の主尊。悪魔を下し仏道に導きがたいものを畏怖せしめ、煩悩を打ちくだくと言います。
忿怒の姿で火焔の中にあり、右手に剣、左手に索縄を持ち、心の内外の悪魔をはらうとされています。
明治元年(1868年3月)、明治政府によって出された神仏習合を禁じた命令。これにより全国に廃仏毀釈(はいぶつきしやく)運動が起り神社と習合していた寺院の仏堂、仏像、仏具などの破壊・撤去された。
日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた信仰のこと。すでに奈良時代から寺院に神が祀られたり、神社に神宮寺が建てられたりした。平安時代頃からは本格的な本地垂迹(ほんじすいじやく)説が流行し、中世になって両部神道などが成立した。
明治元年(1868年3月)、明治政府によって出された神仏習合を禁じた命令。これにより全国に廃仏毀釈(はいぶつきしやく)運動が起り神社と習合していた寺院の仏堂、仏像、仏具などの破壊・撤去された。