村岡を領していた平良文は坂東八平氏の祖とされています。
平良文の子孫、鎌倉権五郎景昌が宮前御霊神社を勧請して創建しました。建久年間(1190~1199年)には景昌公を合祀し川名の鎮守とされています。
村岡歴史の道の道標に導かれ住宅地の中を進むと急な石段がありました。
長い石段を登ると拝殿、その側には境内社の稲荷社、左には七福神の福禄寿が祀られています。
平安時代後期の武将、八幡太郎義家として知られる。比叡山等の強訴の頻発に際しその鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍する。前九年の役で父を助けて安倍氏を討ち後に陸奥国守となった。清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こした。東国における源氏勢力の基盤をつくった。
平安後期の1083年から1087年、奥羽の豪族清原氏が起こした戦乱。清原氏内部の相続争いが発端であったが、陸奥守として下向した源義家が清原清衡(藤原清衡)とともに、清原家衡・武衡を金沢柵(かねざわのさく)に下して平定した。これにより清衡は平泉における藤原三代の基をつくり、義家は東国に源氏の勢力基盤を築いた。