神奈川県にある御霊神社16分社の村岡総鎮守の神社です。
村岡五郎良文(平良文)が平将門の討伐祈願のために山城国洛中の御霊神社より勧請しました。のちに鎌倉権五郎景政、葛原親王、高見王、高望王が祭神に加えられました。
御霊神社の近辺に良文の館があったとされ、祭神の鎌倉権五郎景政もこの地に住したと考えられています。
御霊神社の右側の山は旗立山と呼ばれ、永承6年(1051年)、源頼義が前九年の役に出陣する際に源氏の白旗を立てて軍を集めたと言われています。のちに頼義の子義家が永保3年(1083年)の後三年の役に出陣する際にも源氏の白旗が掲げられたと伝えられています。
祭神の鎌倉権五郎景政は、義家に従い後三年の役に出陣します。その時、鳥海弥三郎保則に右眼を射られながら奮戦したと伝えられています。
境内にある矢竹稲荷大明神の案内によると、権五郎に刺さった矢を地に刺すと矢笹が生えてきたと伝えられています。
村岡五郎良文は千葉氏、上総氏、三浦氏、土肥氏、秩父氏、大庭氏、梶原氏、長尾氏の坂東八平氏の祖とされています。源氏再興の旗挙げをする源頼朝に従った三浦氏や、房総に渡った後に従った千葉常胤、上総介広常などの歴史は今年のNHK大河ドラマで描かれるのでしょう。
平安時代後期の武将、八幡太郎義家として知られる。比叡山等の強訴の頻発に際しその鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍する。前九年の役で父を助けて安倍氏を討ち後に陸奥国守となった。清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こした。東国における源氏勢力の基盤をつくった。
平安後期の1083年から1087年、奥羽の豪族清原氏が起こした戦乱。清原氏内部の相続争いが発端であったが、陸奥守として下向した源義家が清原清衡(藤原清衡)とともに、清原家衡・武衡を金沢柵(かねざわのさく)に下して平定した。これにより清衡は平泉における藤原三代の基をつくり、義家は東国に源氏の勢力基盤を築いた。