京急富岡駅9:55~長昌寺10:30/40~富岡八幡宮10:55/11:00~小柴自然公園11:50/12:05~クリエイト金沢柴町店12:25/35~寶蔵院12:40/45~金澤八幡神社13:25/30~伝心寺13:35/40~龍華寺13:50/55~洲崎神社13:55~琵琶島神社14:05~瀬戸神社14:10/15~イオン金沢八景店14:20/14:55~正法院15:30/40~赤井稲荷15:45~金沢八景駅15:50
お正月に行われる七福神巡りもそろそろ終わりを迎える所が多いようです。横浜の金沢周辺をめぐるこの七福神巡りも1月31日までと言います。金沢は鎌倉の東の玄関として栄えたところで称名寺をはじめとして中世の歴史を感じさせる神社仏閣、遺跡などが多く点在するところです。
●布袋尊・長昌寺、住所:横浜市金沢区富岡東3丁目23-21 |
●蛭子尊・富岡八幡宮、住所:横浜市金沢区富岡東4-5-41 |
●寿老人・寶蔵院、住所:横浜市金沢区柴町214 |
●毘沙門天・伝心寺、住所:横浜市金沢区町屋町16-28 |
●大黒天・龍華寺、住所:横浜市金沢区洲崎町9-31 |
●弁財天・瀬戸神社、住所:横浜市金沢区瀬戸18-14 |
●福禄寿・正法院、住所:横浜市金沢区釜利谷東3-4-24 |
たどり着いた京急の富岡駅からしばらく歩くと臨済宗建長寺派の長昌寺です。横浜金沢七福神の布袋尊を祀っています。
村民太左衛門の先祖柳下豊後守が開基となり、仙渓が開山、長昌庵と号していたと言います。
長昌寺には芋観音が祀られています。かつてほうそう(天然痘)は「いもがさ」と呼ばれ恐れられていました。芋観音は疱瘡除けのご利益があったとされています。後で調べると本堂の裏手に観音堂があるとか、毎年3月には芋観音御開帳の行事があり、里芋の煮ころがしが参詣者にふるまわれると言います。
松並木が続く富岡公園をしばらくたどると富岡八幡宮、横浜金沢七福神の恵比寿天が祀られた神社です。
富岡八幡宮は、建久2年(1191年)源頼朝が、富岡郷鎮護のために難波蛭子尊を勧請して創建、安貞元年(1227年)祭神を八幡神に斎い替えたしたと言います。
境内には卯陪従(うべいじゅう)の案内板がありました。鎌倉時代より伝わる伝統神事で、2月、11月の初卯の日に夜神楽として 湯立神楽を奉納すると言います。
この神社も新型コロナの感染対策に力を入れているところか、拝殿前の鈴緒も使用できないように柱にくくり付けられていました。
旧海岸線に続く健康道づくりルートは全長13kmのウォーキングロードです。散策を楽しむ人、公園で遊ぶ小さな子供を連れなど、少し寒そうなですが思い思いの休日を楽しんでいました。
長浜公園はかつての海岸線があったところ、公園の側には50mほどの海食崖がそびえています。横浜は関東ローム層と呼ばれる火山灰が降り積もったところです。目の前の崖は海蝕でできた露頭なのでしょう。また6万5千年前の箱根山巨大噴火では20cmから1mの火山灰が降り積もり、大火砕流が横浜市内にも流れ込んだと言います。横浜もまた災害に無縁な土地ではないようです。
長沢公園を横切るように高速道路横横線が走っています。あまり利用したことはありませんが、近くには並木インター、釜利谷JCTから湾岸線へと続く道路です。
公園を超えると横浜検疫所、その先には野口記念公園があります。ホールには野口英世に関した展示があると言います。
枯れた芝生が広がる公園は小柴自然公園。小さな子どこが歓声を上げる公園でお弁当にしました。
右手の丘の上はかつて米軍の航空燃料貯蔵施設があったところです。2005年に日本に返還され、今後横浜市により公園として整備される予定と言います。2020年、作業していた重機がタンクに転落した事故のニュースが記憶に残っています。戦争の痕跡はここにも残っているようです。
公園を離れしばらく進むと柴町、道標もなく判り難い住宅地の中に真言宗御室派の寳藏院、横浜金沢七福神の寿老人を祀るお寺です。
創建年代等は不詳ですが、傳宥法印が元禄2年(1689年)に当地に堂宇を再建、貞光坊を寶蔵院と改めて中興開山したと言います。
境内に祀られた仏像は弘法大師、本堂脇には不動明王像も祀られていました。
ここからは称名寺へと向かいます。称名寺は金沢北条氏の菩提寺、北条実時が六浦荘金沢の屋敷内に建てた持仏堂が起源とされます。実時の孫、貞顕の時代には三重の塔を含む七堂伽藍を完備した大寺院として全盛期を迎えました。
今回は称名寺の山門から赤門通りを下って行くことにします。ここは金沢の町めぐりで訪れたところです。古い町並みが残る通りにはお寺や神社が立ち並び、墨田川の看板を掲げた老舗もありました。
赤門通りをさらに下ると曹洞宗の伝心寺、横浜金沢七福神の毘沙門天を祀るお寺です。
執権北条時頼公が宝治元年(1247年)に開基、曹洞宗開祖道元禅師が当寺で説法したと言います。
その後、後北條の北条氏繁が大永元年(1521年)に道了山より養拙宗牧和尚を招請して開山しました。
地蔵菩薩や六地蔵などたくさんの石仏が祀られたお寺です。
さらに下ると真言宗御室派の龍華寺、横浜金澤七福神の大黒天を祀るお寺です。
知足の山名は「吾唯足知」から名付けられたもでしょう。京都龍安寺や山口瑠璃光寺の知足の手水鉢など禅寺の庭園などで見かけます。
治承年間(1177~1181年)源頼朝が瀬戸神社を勧請した際に、別当寺として浄願寺と号して創建したといいます。
文明年間(1469~1486)法印融辨の代には光徳寺を兼帯したものの、戦乱により両寺とも罹災しましたが明応8年(1499年)に法印融辨が中務丞資方篤信の助力を得、両寺を合併、後土御門院の勅命により知足山龍華寺と号して建立したと言います。
広い境内には茅葺の鐘楼があります。天文10年(1541年)の銘がある梵鐘は鎌倉時代後期の作とされ神奈川県の重要文化財に指定されえています。
また、牡丹などの花の寺としても知られます。
龍華寺に近くには洲崎神社が祀れれています。
現地の案内板によると当社はもと長浜の地にあったが、応長元年(1311年)の激波で一村流滅し、鎮守の大六天社を奉じてこの地に移住したものと言います。
明治の神仏分離令により洲崎神社と改称しました。
平潟湾には琵琶島神社があります。
治承4年(1180年)、源頼朝が三島明神を勧請して瀬戸神社を創建した時に、北条政子が夫にならって、琵琶湖の竹生島弁財天を勧請、海中に島を築いて琵琶島神社を創建したと伝えられています。
またここは金沢八景の一つ瀬戸の秋月の地です。古くから景勝地として知られていましたが江戸後期、歌川広重の錦絵により広く世に知られたと言います。
小泉夜雨(こずみ の やう) - 手子神社(小泉弁財天)
称名晩鐘(しょうみょう の ばんしょう) - 称名寺
乙艫帰帆(おっとも の きはん) - 海の公園より内陸の寺前地区の旧海岸線
洲崎晴嵐(すさき の せいらん) - 洲崎神社
瀬戸秋月(せと の しゅうげつ) - 瀬戸神社
平潟落雁(ひらがた の らくがん) - 平潟湾
野島夕照(のじま の せきしょう) - 野島夕照橋付近
内川暮雪(うちかわ の ぼせつ) - 内川入江または瀬ヶ崎から九覧亭の平潟湾
金澤八景駅の近くには瀬戸神社、横浜金沢七福神の毘沙門天を祀る神社です。
源頼朝が伊豆三島明神を勧請して治承4年(1180年)に創祀したといいます。
かつて泥亀町から釜利谷東にかけては大きな入江でした。平潟湾とは狭い海峡でつながり潮の満ち干で海水が渦巻く「せと」であったと言います。
古代の人はこの地を罪穢れを流し去ってしまう神聖な地と考えていました。神社の隣接地からは古墳時代に祭りが行われていた証として祭祀遺物が出土しています。
最後は真言宗御室派の正法院、横浜金沢七福神の福禄寿を祀るお寺です。
金沢文庫駅からしばらく歩いた住宅地の中にあります。赤井不動尊が祀られたお寺で、弘法大師が加持した井戸は赤井と呼ばれ金沢五井の一つと称されています。
またこのお寺は十三仏永代墓のお寺です。
十三仏は冥界の審理に関わる13の仏です。十三回の追善供養(初七日~三十三回忌)をそれぞれ司る仏です。
不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩 、弥勒菩薩、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿しゅく如来、大日如来、虚空蔵菩薩
道教や仏教には十王の信仰があります。閻魔大王など十王は死者の罪の多寡に鑑み、地獄へ送ったり六道への輪廻を司るとされています。十王の本地仏として十三仏が信仰されたようです。
秦広王(しんこうおう)、初江王(しょこうおう)宋帝王(そうていおう)、五官王(ごかんおう)、閻魔王(えんまおう)、変成王(へんじょうおう)泰山王(たいざんおう)平等王(びょうどうおう)、都市王(としおう)、五道転輪王(ごどうてんりんおう)
金沢文庫駅への途中に赤井稲荷があります。
赤い奉納旗の石段を登ると小さな社がありました。現地には由緒書きなどもなく詳しいことは判りませんでした。
帰りは京急の金沢八景駅です。金沢の旧海岸線をめぐる七福神ですが古い歴史を今に残す町歩きが楽しめるところでした。