横浜駅12:50~神奈川台関門跡13:10~望欣台の碑~本覚寺13:35~権現山(幸ヶ谷公園)13:55~滝の橋~高札場~能満寺~笠のぎ稲荷神社15:00~神奈川新町駅15:10
神奈川宿は旧東海道の3番目の宿場町、神奈川湊に近く海と陸をつなぐ要所として発達したところです。また安政元年に結ばれた日米和親条約で開港の地として定められ諸外国の領事館跡など往時の歴史の跡が残っているところです。
歩き初めは横浜駅、横浜駅の周辺は埋立地で旧東海道は現在の国道1号線を離れ海側の第一京浜(国道15号線)に沿っていたと言います。
横浜駅からビルの谷間をしばらく歩くと旧東海道です。人通りの少ない道端には神奈川台関門跡の案内板があります。
横浜開港直後には外国人の殺傷事件が相次ぎ、幕府はその対策のために横浜周辺各所に関門や番所を設け警備を強めました。神奈川宿の西側の関門があった場所がこのあたりと言います。
急坂を登りしばらく進むと望欣台の碑です。横浜開港直後、横浜駅から桜木町への鉄道を通すための海の上に1400mの築堤工事が行われました。高島嘉右衛門はこの工事を手掛けた実業家で、その功績は高島台や高島町の名前に残っています。展望が広がる望欣台は高島嘉右衛門の別荘があったところと言います。
緩やかに坂道を下ると本覚寺です。ここはアメリカ領事館が置かれたところで、開港後の横浜では周辺のお寺に各国の領事館が置かれていたと言います。またこの寺は生麦事件の際に負傷した二人のイギリス人が逃げ込んだところと言います。
青木橋を渡り旧街道沿いの商店街をしばらく進むと洲崎大神です。建久2年(1191年)、源頼朝による創建という古い神社です。洲崎大神の参道をの先はかつての神奈川湊の船着き場と言います。
洲崎神社の裏手の山は権現山です。今は東海道本線と国道一号線で分断されているもののかつては本覚寺と尾根伝いつながる急峻な頂であったとされています。幸ヶ谷公園として整備された小高い頂には戦国時代の砦があったところ、永正7年(1510年)上杉氏の家臣、上田正盛が北条早雲に味方し挙兵した伝えられています。
展望が広がる権現山の山頂には日清、日露戦役陣没の招魂碑が建っていました。
旧東海道沿いに戻ると宗興寺です。アメリカ人宣教師で医師でもあったヘボン博士がここで診療所を開設して無料で庶民の診療を行っていたところです。
ヘボン式ローマ字でお馴染みの歴史がこのようなところにも残っているようです。
滝の橋は神奈川宿の本陣があったところ、江戸川には神奈川本陣、反対側には青木本陣が置かれていたと言います。この付近が神奈川宿の中心であったのでしょう。
浄瀧寺はイギリス領事館が置かれたお寺です。妙湖尼が鎌倉に向かう途中の日蓮上人に出会い法華経道場を開いたと伝えられるところです。
慶運寺はフランス領事館として使用されたお寺です。また、浦島太郎が竜宮城から持ち帰ったとされる観音像が祀られていると言います。
浦島伝説では竜宮から丹後の地に戻った浦島太郎は親の御霊を訪ねるため東方をさまよい箱根の山で玉手箱を開けたために老翁となりました。さらに東に進みこの地で親の廟所にたどりつき親の菩提を弔ったとされています。
成佛寺はアメリカ人宣教師の宿舎にあてられたお寺です。ヘボン式ローマ字で知られるヘボンは和英辞典を作るなど日本のために幾多の貢献を行ました。攘夷の浪士でさえ「耶蘇の君子」として特別扱いをしたと伝えられています。3年後に居留地に移転し、後に明治学院を創設したといいます。
またブラウン博士は夫婦で来日し聖書や賛美歌の翻訳に貢献しました。妻のエリザベスはミシンを持参し、広く技術を教えたと言います。
近くには高札場があります。幕府の法や規則などを庶民に知らせるための掲示板で宿場町には必要不可欠なものだったようです。往時を模し墨で書かれた定めが掲げられていましたがかすれてよく読めませんでした。
熊野神社は熊野権現を祀る神社、もともとは権現山にありましたが江戸中期に金蔵院境内に移転、明治の初め神仏分離令により金蔵院から別れました。
境内には大火に再生した樹齢400年のご神木があります。
東光寺は太田道灌の守護仏を小田原北条氏の家臣である平尾内膳が本尊として祀ったお寺です。
パンプレットなどにも紹介されている神奈川宿の絵図、江戸の後期、幕府の道中奉行所が作った東海道分間延絵図の一部です。滝の川を挟んで神奈川宿の街並みが広がっている様子が描かれています。
能満寺は四天王を配した大きな山門を持つお寺です。鎌倉時代に創設とされこの地の漁師が海中から虚空菩薩を拾い上げこれを祠ったと伝えられています。
良泉寺は浄土真宗のお寺です。境内には盛りを過ぎようとするもみじが見事です。案内板いは開港当時、良泉寺も諸外国の領事館にと命ぜられましたが、本堂の屋根をはがし修理中を口実に幕府の命令を断ったと書かれていました。
神奈川宿の最後は笠のぎ稲荷神社です。京急線の線路の先に石の鳥居があります。
平安時代の創建で、当初は稲荷山の中腹にありましたが江戸時代に山麓へ移り、明治2年(1869年)現在の地に遷座しました。社前を通行する人の笠が不思議に脱げ落ちことからため笠脱稲荷と呼ばれるようになり、のちに笠のぎに改められました。
境内には横浜の有形文化財に指定された板碑があります。鎌倉時代末期から南北朝時代初期のものと言い阿弥陀如来の梵字が刻まれたものです。秩父で青色卒塔婆を見かけたことはありますが神奈川では見かけたことがありませんでした。