横浜薬大南門バス停14:00~宇田川橋14:05~専念寺14:15~まさかりが渕14:30~ローソン泉中田1丁目店15:20/30~御霊神社15:50/16:05~まほろばバス停16:35
境川の支流の一つ宇田川の水源をたどる川歩きです。
延長は3.5kmほどの小さな川、昔は上流部を村岡川、下流部を宇田川と呼んでいたと言います。途中には彦六の伝説が残るまさかりが渕もあります。
歩き始めは横浜薬大南門バス停から、本来は600mほど戻り境川との合流点から歩くのですが宇田川橋から歩くことにしました。
宇田川は典型的な都市部の川、コンクリートの護岸と手摺で覆われた遊歩道が続いています。道端には富士元一講の石碑がありました。神奈川に多い富士講の一つのようでネットによると碑文の中講義は明治初期の国家神道で設けられた教導職と言います。神官や僧侶が任命されたましたが神官と僧侶の対立などにより明治17年に教導職は廃止されたと言います。この石碑はそのような時代を今に伝えるもののようです。
しばらく歩くと浄土宗の専念寺、鎌倉権五郎景正の守り本尊が祀られたお寺です。
さらに歩くと彦六の伝説を伝えるまさかりが渕です。「若い彦六がまさかりが渕に斧を落とすと、渕から美しいお姫さまが出てきて3日日にわたっておもてなしを受けた。彦六が村に戻ると村では、彦六の3回忌が行われていたそうで・・」何処か浦島太郎に似たような話が伝えられているようです。
さまかりが渕の石碑の側には彦六の墓と伝えられる供養塔がありました。
殿山橋を超えると宇田川には幾つかの支流が流れ込んでいます。途中には広い遊水地がありました。
このに近くには深谷通信所跡があります。旧日本海軍の通信施設で、超長波を使用して軍艦などとの長距離通信が行われていたとか、戦後は米軍に接収されていましたが2014年6月、日本に返還されました。現在は県道(かまくら道)が通ているものの一部は関係者以外立入禁止となっています。今後スポーツ施設などの整備が行われると言います。ここにもまた戦争の痕跡は残っているようです。
汲沢小学校を超えると宇田川は住宅地の中を流れるようになります。細くなった流れは民家の間に梯子状の開渠となって続いていました。
しばらく歩くとかばた橋です。現地の案内板によると近くに4000年から5000年前、縄文中期のかばた遺跡があると言います。土器のかけらが多数発掘されていると言ことで、この周辺に縄文人が生活していたようです。
6000年前は縄文海進の時代、地球の温暖化などで海面は3~4mほど上昇したと言います。そのため古大船湾が現在の柏尾付近まで入り込んでいました。宇田川と境川の合流地点で標高は13mほどですが当時の海岸線はかなり複雑に入り組んでいたのでしょう。
かばた橋からは文月橋、葉月橋・・と歴月の名前にちなんだ橋があります。しかし川に沿った遊歩道は無くなり住宅地の舗装道路を歩くことになります。
やがて宇田川は暗渠になります。長後街道を超えると中田中学校グランドのはずれから暗渠の開口部が顔を出していました。
住宅地の中を流れる側溝はやがて暗渠となり道路の下に消えてしまいました。
しばらく歩くと御霊神社です。鎌倉権五郎景政を祀る神社で藤沢市宮前の御霊神社を勧請したものと言います。暗い参道を進むと小さな池の中に祠があります。池のほとりには村岡川源流、弁天の湧水と刻まれた石碑が建っていました。
かつてこの一帯は村岡郷、俣野郷と別れていたため、深谷から上流は村岡川m下流は宇田川と呼ばれていたようです。
また弁手池の水はが眼病に効くと言うことから御霊神社は眼病平癒の神様として信仰を集めるていると言います。
宇田川の水源は御霊神社のほかにも白百合母子寮など数カ所があるようです。
帰りはまほろばのバス停から戻ることにしました。