鎌倉五山第二位の円覚寺は臨済宗円覚寺派総本山でです。文永・弘安の役で蒙古の大軍を撃破した時宗はその戦死者の菩提を弔うため無学祖元を開祖に円覚寺を建立しました。
円覚寺の石柱が建ち石段を登ると随鹿さんの扁額を掲げる総門です。境内の左には選仏堂があります。仏を選び出す場所という意味で修行僧の坐禅道場と言います。伊勢長島城主松平忠充が禅堂を建立し大蔵経を寄進したとされる建物です。弓道の練習と言うことで数人の若者が堂内で弓を引いていました。
参道の中央には大きな山門がそびえています。三門とも言われ三解脱(空・無相・無願)を象徴し、諸々の煩悩を取り払って涅槃・解脱の世界である仏殿に至る門とされています。
その奥は仏殿、禅宗の七堂伽藍の中心となる建物で本尊の宝冠釈迦如来像のほか、梵天、帝釈天像などが安置れています。関東大震災で倒壊しましたが昭和39年(1964年)に再建されました。掲げられる「大光明宝殿」の扁額は後光厳上皇の宸筆とされています。
この日は三仏忌の一つ涅槃会が行われていました。広い仏殿に管長を始め多くの僧侶が唱える読経の声が響いていました。
涅槃会ののち水色の制服を着た子供たちが仏堂の中に入って行きます。近くにある北鎌倉幼稚園の子供がのようです。観光地のお寺と思われがちな鎌倉のお寺もこのような教育にも力を入れているようです。
居士林は禅を志す在家のための専門道場で、牛込にあった柳生流の剣道場が、柳生徹心居士より寄贈され移築されたものです。現在も学生坐禅会、土日坐禅会が定期的に開かれていると言います。
参道の脇にある池は放生池です。江戸時代初期の絵図に基づき復元されたものです。池の露出した岩盤は虎頭岩と呼ばれています。
その先には塔頭の一つ佛日庵があります。境内には北条時宗を祀る開基廟があります。
参道にある小さな岩穴は白鹿洞です。現地の案内板によると開山の無学祖元の説法を聞くため集まった人々とともにこの洞穴から白鹿が現れ説法を聞いたとされています。お釈迦様が初めて説法を行った麓野苑に因んだ説話とされ山号の瑞鹿山もこの鹿から名付けられたとされています。
境内の奥には黄梅院があります。北条時宗の夫人、覚山尼が時宗の菩提を弔うために建立した華厳院の場所に足利氏が創建した夢想疎石の墓所です。疎石を師とする夢想派の関東における拠点となったところと言います。ロウバイやモクレンの花が咲く所としても知られています。
方丈は住職が居住する建物ですが、現在は各種法要のほか坐禅会や説教会、夏期講座など多目的に使われています。方丈には池と苔が美しい庭園、方丈前には百観音霊場として古い石仏や鬼瓦などが祀られていました。
広い境内に古い歴史を今に伝えるたくさんのお堂や佛日庵、訪れた日は涅槃会であったこともありましたが境内には観光地のお寺とは一味違う時間が流れているようでした。
1251~1284年、鎌倉幕府八代執権。時頼の子。文永・弘安の両度の元寇に際し強硬に幕政を指導してこれを退けた。また禅宗に帰依して宋から無学祖元を招き円覚寺の開山とした。
仏教の開祖。世界4聖の一人。ネパール南部の釈迦族の王子として紀元前6から前5世紀に生まれる。苦行ののち悟りをひらきインド各地で布教して80歳で没したとされる。
はじめは実在の釈迦をさしたが入滅後、超人化・神格化されて信仰・崇拝の対象となる。日本には6世紀、百済からその教えがつたわった。
大正から昭和初期にかけて設定された観音霊場で、江戸時代に成立した鎌倉郡三十三箇所をベースにされている。鎌倉郡三十三箇所と異なり、廃仏毀釈により廃絶・移転してしまった寺も存在した事から23箇所の霊場が新たに加えられている。
1番 大蔵山杉本寺、2番 金龍山宝戒寺、3番 祇園山安養院、4番 海光山長谷寺、5番 満光山来迎寺、6番 錦屏山瑞泉寺、7番 岩蔵山光触寺、8番 飯盛山明王院、9番 稲荷山浄妙寺、10番 功臣山報国寺、11番 帰命山延命寺、12番 中座山教恩寺、13番 稲荷山別願寺、14番 随我山来迎寺、15番 円龍山向福寺、16番 内裏山九品寺、17番 南向山補陀洛寺、18番 天照山光明寺、19番 天照山蓮乗院、20番 天照山千手院、21番 普明山成就院、22番 霊鷲山極楽寺、23番 大異山高徳院、24番 亀谷山寿福寺、25番 泉谷山浄光明寺、26番 扇谷山海蔵寺、27番 若昇山妙高院、28番 巨福山建長寺、29番 蓮菜山 龍峰院、30番 福源山明月院、31番 金宝山浄智寺、32番 松岡山東慶寺、33番 円覚寺仏日庵
鎌倉時代、中国を支配していたモンゴル軍による日本侵攻。文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の2回があり、いずれも北部九州が戦場となった。弘安の役では約4400隻の元寇船が襲来し鷹島沖に集結したが停泊中に暴風雨に遭遇して多くが沈没したとされる。元軍を撃退したこの暴風雨は神風と呼ばれた。
鎌倉幕府は第8代執権北条時宗。文永の役後、博多湾沿岸の防備体制の強化、鎮西奉行の設置などを行なったため九州御家人には多大の軍事的、経済的負担を負わせ武士社会に深刻な状況を招いた。
明治元年(1868年3月)、明治政府によって出された神仏習合を禁じた命令。これにより全国に廃仏毀釈(はいぶつきしやく)運動が起り神社と習合していた寺院の仏堂、仏像、仏具などの破壊・撤去された。