古代にはこの周辺は師長国造(しながくにつくり)が支配してきたところで西からの旅人はこの峠を通って板東を目指したと言います。すでに六本松は枯れてしまったようですが古い石碑と案内板が建っていました。
古代の相模国は相武(さがむ)国造、師長(しなが)国造に分かれていたました。師長国造は余綾郡磯長郷を(現在の大磯町)拠点としていたと言います。
大化の改新以降は統合され相模国になりました。その国府は全国でも唯一、所在地が特定されていないところで海老名、平塚、大磯、小田原が候補とされています。総社が国府の近くに置かれたことから平安時代には平塚市の相模四宮前鳥神社付近にあった説が有力になっています。
大化元年(645年)中大兄皇子(のちの天智天皇)・中臣鎌足らが蘇我氏を打倒して始めた古代政治史上の一大改革。中大兄皇子は孝徳天皇を即位させ自らは皇太子として実権を握った。公地公民制、地方行政組織の確立、班田収授法、租庸調の統一的税制の実施を中心とした改新の詔みことのりを発布した。氏姓制度による皇族・豪族の支配を否定して中央集権的支配の実現へと向かった。
日本の古代史における伝承上の英雄。景行天皇の皇子です。気性が激しいため天皇に敬遠され、九州の熊襲(くまそ)や東国の蝦夷(えぞ)の討伐に遣わされたといわれています。風土記なども含めてさまざまな伝説が残っています。
第38代天皇(在位:668年1月3日~671年12月3日)舒明天皇第二皇子。645年(大化1)中臣鎌足と図って蘇我そが氏を滅ぼし、皇太子として改新政治を主導。即位後は都を大津に移し、近江令を制定した。また庚午年籍(こうごねんじやく)を作り、律令体制の基礎を築いた。陵墓は京都府京都市山科区御陵上御廟野町の山科陵。
第38代天皇(在位:668年1月3日~671年12月3日)舒明天皇第二皇子。645年(大化1)中臣鎌足と図って蘇我そが氏を滅ぼし、皇太子として改新政治を主導。即位後は都を大津に移し、近江令を制定した。また庚午年籍(こうごねんじやく)を作り、律令体制の基礎を築いた。陵墓は京都府京都市山科区御陵上御廟野町の山科陵。
古代の豪族。武内宿禰(たけのうちのすくね)を祖とするというが未詳。大和朝廷の重臣として仏教など大陸文化の導入に貢献したが、大化元年(645年)蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)父子は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)らに滅ぼされた宗家は滅亡した。
第36代天皇(在位:645年6月14日~654年10月10日)茅渟王(ちぬのおおきみ)の王子。大化改新に加わり、難波長柄豊碕宮(なにわのながらとよさきのみや)を都とした。陵墓は大阪府南河内郡太子町山田の大阪磯長陵。