愛宕山は京都北山に位置し比叡山とともに古くからの信仰の山として知られています。山頂には全国に点在する800社余りの愛宕神社の総本社があり、何時も多くの信者が参拝に訪れるところです。「お伊勢さんへ七度、熊野へ三度、愛宕さんへは月参り・・」の歌があるようですが火伏せの御利益があるとしてこの山に月参りをしている人も多いようです。
愛宕山は日本300名山の一つに、またオタカラコウの咲く山として花に百名山にも選ばれています。さらには旧日本海軍の重巡洋艦、高雄型の2番艦愛宕はこの山から命名されたと言います。昭和7年呉海軍工廠で竣工、昭和19年にレイテ沖海戦で沈没するまで多くの戦場を駆け巡った船と言います。
たどり着いた清滝は大きな駐車場があります。平日にも関わらず山頂に向かうハイカーの車が数台停まっていました。
清滝川を渡ると真っ赤な鳥居から表参道が始まります。表参道は山頂までおよそ4.5km、参道の脇には古びた丁石が置かれていました。石段が続く参道をしばらく登ると愛宕山ケーブルの線路跡が現れます。多くの参拝者を山頂付近まで運んでいたケーブルも戦時中に廃止になり線路は戦時供出されたと言います。
杉林の中を登って行く参道の両脇にはお地蔵さんや祠など、古くからの信仰の匂いが数多く残っています。17丁目には火の神火産霊命を祀ったと言う火燧権現の祠跡、将軍家に献上していたと宇治茶の壺を割ってしまったと言う壺割り坂など、この参道は古い歴史が今も漂っているようです。
たどり着いた25丁目は参道の中間点で、愛宕名物のしんこ餅を売る茶店があったところとか。その先30丁目には5合目休息所の東屋が建っていました。
ここ付近からは稜線の上を登って行くようになったのか、幾分勾配も緩やかになってきます。大きな杉の下に祀られた社は大杉神社。何処から持ち上げたのか大きな菰樽が積み重ねられています。広くなった参道は木漏れ日を浴びる杉木立の中を緩やかに登って行きます。たどり着いた7合目には休憩所があります。目の前は京都の町を一望することができるところで、付近にではカワラケ投げが行われていたと言います。
「おのぼりやす、おくだりやす・・」はこの参道でのあいさつの言葉。御嶽山での挨拶の言葉は「ようお参り・・」。その山々であいさつの言葉は違っているようです。しかし山から下ってくる人の挨拶は何れも「こんにちは・・」、地元の人が少ないだけなのかも知れませんが、古くから伝わる言葉がや風習が少なくなっているのかも知れません。
水尾の里へと下る道を左に分けると参道は再び暗い杉林の中を登って行きます。左手に現れた小さな小屋は花売り場とか。火伏せの神符としてのお土産として愛宕神社にお参りした人たちが買い求めた樒(シキミ)を売っているところとか。毎日シキミの葉を1枚ずつ竃にくべると火事にならないと言います。
44丁目のがんばり坂を登ると黒門です。さらにひと登りする社務所の前にたどり着きました。付近には古びた石灯篭が立ち並び、休憩のため設けられたベンチやトイレもあります。
さらに急な石段を登ると荘厳とした雰囲気が漂う愛宕神社の本殿にたどり着きました。本殿の脇には参拝記念の石碑が建っています。中には千回、三千回と参拝登山を繰り返した人もいるようです。
また愛宕山は天狗の住む山として知られています。日本には八大天狗が住むと言います。その第1位がこの愛宕山に住む太郎坊天狗。山門前には太郎坊化身岩と呼ばれる神岩がありました。このほか大天狗の住む山は近江比良山の次郎坊、信濃戸隠の飯縄三郎、鞍馬の僧正坊、熊野大峯の前鬼・後鬼、山陰の大山伯耆坊、四国は白峰相模坊、九州の彦山豊前坊。何れの山も山岳信仰の歴史を色濃く残す山のようです。
愛宕神社の神殿わきには暖を取っている地元のハイカーがいました。話を聞くと愛宕山の山頂は神社からジープ道を少し下ったところにあるとか。首なし地蔵への道を右に分け、杉林の中をしばらく進むと小さな分岐に三角点を示す小さな道標がありました。ここから右手に道を小さく登るとアンテナの建つ広場にたどり着きます。愛宕神社よりも30mほど低いようですが愛宕山の三角点はすぐ傍のコブの上にあります。
目の前は視界が開け京都の街を一望することができます。大きくうねりながら流れていくのは桂川、左手に連なる低い峰は京都東山の山々のようです。しかし晴れているものの白く濁った空の下では何処がどの山かを見定めることは難しいものです。
愛宕神社の山門近くまで戻り、月輪寺への道を下ることにします。枯れ葉を落とした雑木林の道は登山道という雰囲気がする道です。
たどり着いた月輪寺は空也上人や法然上人ゆかりの寺と言われています。飛鳥時代、泰澄(たいちょう)上人と役小角によって開山され、その後僧慶俊と和気清麻呂が中国の五台山にならい、愛宕山の朝日峰に白雲寺(現愛宕神社)、大鷲峰に月輪寺、高雄山に高雄山寺(現在の神護寺)、龍上山(たつかみやま)に日輪寺、そして鎌倉山に伝法寺の修行道場を設け、愛宕一帯を聖地化したと伝えられています。しかし現在残っているのは、この月輪寺と神護寺の二寺のみで、盛隆を誇った白雲寺も明治時代の廃仏毀釈の波の中で愛宕神社へと変わって行ったと言います。
人気のいない境内には大きな親鸞聖人の像、天然記念物のホンシャクナゲの大きな株もありました。またここは明智光秀が織田信長に反旗を翻した本能寺の変の一幕が演じられたところ。愛宕五坊の一つである西坊威徳院(現在は愛宕神社の社務所がある)で連歌を興行した光秀が「ときは今 あめが下しる 五月かな」と謡ったと言われています。月輪寺には明智光秀がお神籤を引いたとゆかりの寺と案内されていました。
しばらく下ると月輪寺の入り口にたどり着きました。ここから川沿いの小道を登って行くと空也の滝です。高さ20メートルほど、白い飛沫を上げる滝は空也が修行したところと伝えられる滝で、前鬼、後鬼を従えた役行者像などたくさんの石仏が祀られていました。
車を停めた表参道の入り口までは林道を30分ほど。清滝川を下ってくるこの道は東海自然歩道として整備された道、ここからは京都の西山をたどり以前登ったポンポン山などの頂を通り大阪の蓑面に向かうようです。