勝沼城は三田氏が築いた平山城です。現地には案内板などが少なく探すのにかなり苦労をしました。
光明寺の墓地の傍から雑木林の中を登ると勝沼城です。本丸を中心に三の丸、二の丸を配置しこれを取り巻くように横堀がありました。本丸の小曲輪の先は展望が開け東青梅の市街が見渡されます。本丸の先はなだらかな道は吹上のしょうぶ公園へと続いていました。
上杉謙信の関東侵攻後、北条氏を離反して上杉方に従った三田綱秀がは勝沼城から急峻な地形を頼り辛垣城に移りました。その辛垣城も北条氏照に攻められ三田氏は終焉を迎えることになります。
三田氏滅亡後は北条氏照の家臣師岡将景が入城しました。現在の遺構は師岡氏の改修によるものと言います。
《東京都指定史跡・勝沼城址》
勝沼城は、霞川上流部を南に臨む丘陵に位置し、主部標高215メートルを測る平山城です。三つの曲輪で構成されています。曲輪は東西に並び、中央主郭であると考えられます。曲輪周囲には、空堀や土塁など防御施設の遺構が良好に保存されています。
築城年代や築城者は不明ですが、平将門の末裔と称し、多摩川上流の三田谷を勢力としていた三田氏の居城でした。永禄4年(1561)に上杉謙信が関東を席巻すると、管領上杉氏の勢力下にあった三田氏らは上杉謙信の旗下に入ります。その後、上杉謙信が越後(現在の新潟県)へ帰国すると、敵方の北条氏による反撃が開始され、永禄6年(1563)頃には滝山城の北条氏照により三田氏は滅ぼされました。
『新編武蔵風土記稿」によると、三田氏滅亡後の勝沼城には北条氏照の家臣、師岡山城守将景が入城したとされており、師岡城とも呼ばれています。現存する遺構は、その構造から北条氏勢力によって修築されたものと考えられます。
昭和50年には東京都の歴史的環境保全地域にも指定され、青梅市が管理しています。