青梅丘陵ハイキングコースには平将門の子孫、三田氏が詰めの城として築いた辛垣城があります。上杉謙信の関東侵攻において三田綱秀は上杉軍に参列し反北条に立ちました。上杉軍が春日山に戻ったのち、滝山城主の北条氏照に攻められた辛垣城は落城します。山麓の戦畑は激しい戦いが行われたところと言います。
ハイキングコースから外れた樹林帯の中には土塁や堀切の跡が残っています。現地の案内板によると山頂近くの平坦部では石灰岩の採掘が行われていたため当時の遺構ははっきりしないと言います。それでも堀切や虎口の跡などが堅固な山城であったことを物語っています。
宮ノ平駅が近づくとハイキングコースは車も通れそうな広い道を歩くようになります。右手の小さなコブは辛垣城の物見櫓があったところとか。東屋の前からは青梅の街並みの先に八王子の丘陵が広がっています。そこは北条氏の山城の一つ滝山城があるところです。
?~940年、平安中期の武将。上洛して藤原忠平に仕えたが、希望が叶えられず関東に戻った。同族内の領地争いから伯父の国香を殺し、武蔵国や常陸国の紛争に介入するなど関東に勢力を拡げた。自ら新皇と称し関東独立を図ったが朝廷の追討軍との争いに破れた。京都で処刑され首が飛び帰って葬られたのが大手町将門首塚とされる。
1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。
1515~1571年、戦国時代の武将。後北条氏第3代。北条氏綱の子。1551年、扇谷上杉氏・山内上杉氏を河越に破り、1561年の小田原城の戦いでは上杉謙信を敗走させた。伊豆・相模・武蔵・上野を領有し後北条氏の全盛期を築いた。
1590年豊臣秀吉が天下統一のため小田原の北条氏(後北条氏)を滅ぼした戦い。秀吉は兵農分離による組織化された軍事力と強力な物量作戦を展開し、関東の北条氏の支城を次々と落とし本城小田原城を3ヵ月余にわたり攻囲・降伏させた。