藤沢駅10:25~オーケー藤沢店10:30/35~境川合流点10:40~宮前五霊神社11:30~大船駅12:55/13:35~笠間大橋14:00~田町長ベンチ14:20/35~柏尾川大橋14:50~戸塚駅15:30/35~平戸永谷川16:10
柏尾川は境川の支流です。境川の合流点から平戸永谷川までをたどる川歩きです。
歩き始めは藤沢駅です。駅前の商店街をしばらく進むと大道橋、この下を流れる川は境川です。川沿いに少し歩くと境川と柏尾川の合流点、ここは片瀬江ノ島の河口までおよそ4kmの地点です。
コンクリートの護岸と鉄柵が続く舗装道路をしばらく歩くと県道312号線に架かる橋です。西鎌倉に抜ける計画もあると言いますがなかなか進んでいないようです。
宮前の小高い山の麓に宮前五霊神社があります。この山は旗立山、前九年の役(1051~1963年)、源頼義が出陣に当たり山頂に源氏の白旗を立てたところです。
そののち、後三年の役(1083~89年)にも同じように白旗が建てられ村岡城主鎌倉権五郎景昌が参陣したと伝えられています。宮前五霊神社の境内に祀られた七面宮は鎌倉権五郎の兜を埋めたという兜山七面宮を移築したものと言います。
境内には折笹矢竹稲荷大明神、疱瘡神、十二天王社が祀られています。今は新型コロナの感染が広がっていますがかつては疱瘡が疫病として恐れられていたのでしょう。
また付近は鎌倉古道の上道が通っていたところです。現地の案内板によると鎌倉の化粧坂から始まる道は柏尾川を渡り、宮前、小塚、高谷、渡内、柄沢(並木・大谷・鞍骨)、島の神へと続いていたようです。県道302号線沿いには今もこれらの地名が残っています。
神戸製鋼所近くはあまり歩く人が少ない細い道です。その先、右岸の道はJRの車両基地の先で通れなくなっていました。仕方なく左岸の一般道を歩くことになります。
大船駅前は迷いにくいところで道を間違ってしまいました。
大船駅で昼食ののち西口へ、ここからはタイルで舗装された道が続いています。大船駅のホーム下には砂押川、川をはさんで横浜と鎌倉とに分かれています。このためなのか大雨のとき大船駅周辺で水があふれ通行止めになってと言うニュースを聞いた記憶が残っています。
繁華街も川を挟んでいるため、昨年のコロナ緊急事態では夜8時も以降営業している鎌倉側のお店と、店を閉めていた横浜のお店があったと聞いたことがあります。
川沿いの舗装道路をしばらく歩くと笠間大橋です。ここは環状4号線が通る橋です。ここから長い階段を渡り右岸へ、付近では横浜環状南線の架橋工事が行われていました。この付近には栄インター・ジャンクションができるようで高い支柱が幾つも建っていました。
この付近は河口から10.6km、川沿いの道は歩行者と自転車の専用道となっています。住友電工横浜工場から金井公園までには柏尾川に並行して大きな金井游水地がありました。大雨の時などでは下流の洪水の対策として重要なところなのでしょう。
芦などの水草は綺麗に伐採されています。バンやカモなどの水鳥が泳いでいました。
遊歩道に沿って桜の並木が始まります。満開の桜を楽しめるようになるのは3月の末ごろ、今年は新型コロナの影響もあるでしょうがお花見の屋台などは店を出すのでしょうか。
柏尾川大橋の近くには柏尾川健康づくりコースガイドがあります。
桜並木は金井公園付近から戸塚駅近くまで、案内板によると柏尾川の桜の歴史は古く安政年間(1854年から1860年)にさかのぼると言います。その後、戦争や改修と新たな植樹により現在は700本ほどとなっていると言います。
また平成11年、区政60周年を記念して戸塚区の花「桜」が制定されました。区の花のデザインとして柏尾川の桜並木がモチーフにされたと言います。
河川敷の水辺を歩くことができます。下流部と違い少し細くなった流れ、草原の斜面や遊歩道が続いていました。
途中、高島橋は架け替えで仮設橋が架かっています。水辺に沿った遊歩道もここから先は通行止めになっていました。
戸塚駅で東海道線を渡ります。戸塚駅のホームも柏尾川の上にかかっていました。
柏尾川沿いの舗装道路を歩くと大橋です。歌川広重の浮世絵、東海道五十三次戸塚宿に描かれていたのがこの橋と言われています。こめやと大橋が描かれた浮世絵は駅の遊歩道や観光パンフレットなどでもお馴染みです。
橋を超えると再び桜並木の舗装道路が続きます。しばらく歩くとブリジストンの横浜工場、工場の中を柏尾川が通ているため工場専用の橋が架かっていました。
阿久和川が柏尾川に合流する地点が柏尾川の終点、ここからは平戸永谷川と呼ばれるようになります。平戸永谷川は住宅地の中を流れ再び馬洗川へと名前を変え源流へと続いています。
藤沢の境川の合流点から16kmほど、周辺には工場や住宅地が多いことから高度成長期には工場廃液や生活排水でどぶ川となっていたようですが、下水処理が進んだことにより近年では川鳥や川魚が生息できるようになっています。未来のためにも川を汚さないことが必要と言うことでしょう。
平安時代後期の武将、八幡太郎義家として知られる。比叡山等の強訴の頻発に際しその鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍する。前九年の役で父を助けて安倍氏を討ち後に陸奥国守となった。清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こした。東国における源氏勢力の基盤をつくった。