武蔵国高麗郡加治の豪族中山家勝が斧屋文達を招聘して創建したお寺です。中山家範が父の菩提を弔うため本格的な寺とし中山家、黒田家の菩提寺となります。境内には日本名園百選に入る日本庭園があります。
慶応4年(1868年)5月23日、飯能戦争の舞台となります。渋沢成一郎を首領とした振武隊は新政府軍に敗れた彰義隊彰義隊の生き残りを吸収し5月18日能仁寺に入り陣営を構築します。
5月23日、官軍は早朝から攻撃を開始、わずか数時間で勝敗は決し寺はほとんど焼失しました。成一郎と惇忠はなおも徹底抗戦の主旨を貫き榎本武揚の艦隊に合流し最後は箱館まで転戦したと言います。
大きな五輪塔に導かれ仁王門をくぐると石灯篭の参道です。その先には天覧山を背に大きな本堂が建っていました。本堂の傍には開山堂や座禅堂、仁王堂などが立ち並んでいます。
唱義死節之碑(義を唱え節に死す)は彰義隊と振武隊が戦った戊辰戦争の慰霊碑と言います。
本堂の奥には日本名園百選にも選ばれた日本庭園もあるようです。ゆっくり時間があれば訪ねてみたいところです。
禅宗の一派。中国の禅宗第六祖慧能の法系である洞山良价 (807~869年) を祖とする。中国禅宗五家七宗の一つ。鎌倉時代に道元が入宋して伝えた。福井県の永平寺と神奈川県の総持寺とを大本山とする。
鎌倉時代の仏僧。曹洞宗の開祖。内大臣久我通親の子。幼くして比叡山に上ったがその教学に疑問をもち、栄西について禅を学び1223年明全(みょうぜん)とともに入宋した。天童山で如浄の印可を受け1228年帰国した。