坂戸城は坂戸山山頂を本丸、麓に平時の住居を設けた山城です。南北朝期に新田氏の一族が築いたとされています。上杉憲顕が越後守護となると、その家臣の長尾氏をこの坂戸城に配置し上田庄一帯と関越国境を守らせました。
越後守護代の長尾為景は永正4年(1507年)、越後の国衆を糾合して守護上杉房能を排斥し、永正7年(1510年)には関東管領上杉顕定をも長森原の戦いにおいて敗死させて越後一国に覇を唱えました。
為景の死後、長尾景虎(上杉謙信)が越後国主になると景虎は上田長尾氏を降し本城を支配下に収めます。
謙信没後の後継者を争った御館の乱を制した上杉景勝(上田長尾氏からの養子)の代には直江兼続が本城を拠点としました。兼続ら上田長尾氏系の家臣らは上田衆と呼ばれ景勝の直臣として重きをなしていきます。
慶応3年(1598年)、景勝が会津へ転封されると坂戸城は代わって越後を領した堀直治の重臣・堀直寄が城主を務め上田領を支配しました。慶応15年(1610年)に直寄が信濃へ移ると取り壊され廃城となりました。
坂戸山の山麓には御舘(おたて)や家臣屋敷跡があります。坂戸城跡の石柱が建つ広場には往時の石垣が復元されていました。右手の杉木立の中には御居間屋敷があります。
一本杉から城坂遊歩道を登って行くと有事の際の上屋敷に当たる桃之木平、その上には広瀬曲輪や本丸である実城(みじょう)があります。本丸には天正14年(1586年)直江兼続の勧請によるとの伝承をもつ富士権現が祀られています。
本丸から続く尾根上には詰めの城であった大城や狼煙台の小城があります。また薬師尾根にはたくさんの観音像が祀られていました。
1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。
1555~1623年、安土桃山・江戸初期の武将。上杉謙信の養嗣子。豊臣秀吉の五大老に列し会津120万石を領した。関ヶ原の戦で石田三成と結んで敗れ米沢30万石に減封された。
鎌倉公方を補佐すべく任命された官職。足利尊氏は鎌倉公方を補佐すべく斯波家長を関東管領に任じました。その没後は上杉憲顕と高師冬(こうのもろふゆ)が就任しました。
観応の擾乱の足利直義と高師直の対立は、上杉憲顕と高師冬の対立となり高師冬は上杉能憲に攻められ自殺しました。このあと関東管領は上杉氏が世襲することになります。
上杉氏は山内(やまのうち)、扇谷(おうぎがやつ)、犬懸(いぬがけ)、宅間(たくま)の4家に分かれ交代で関東管領に就任した。
上杉氏の勢力が強化されると、永享10年(1438年)鎌倉公方足利持氏(もちうじ)と武力衝突するまでに発展し上杉氏は持氏を敗死させた永享(えいきょう)の乱が起こります。
鎌倉府の家臣らの要請で持氏の子成氏(しげうじ)が鎌倉公方に就任しましたが、上杉憲忠(のりただ)を殺害した享徳の乱が発生し成氏は古河に移ることになります。以後管領上杉氏が公方にかわり関東を支配するようになりました。
戦国時代になると後北条氏など新勢力が台頭し、関東管領山内上杉憲政は越後の長尾氏を頼って逃れ管領職を長尾景虎(上杉謙信)に譲りました。謙信は関東管領として関東を支配しようとしたが後北条氏、武田氏らにはばまれて失敗、謙信の死後は関東管領は名実ともに消滅しました。
足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。
1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。
1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。
1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。
天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。
慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。
1560~1600年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に重用され、五奉行の一人として太閤検地などに活躍。秀吉の死後、遺子秀頼を擁ようして徳川家康と対立、関ヶ原の戦いに敗れ京で斬首された。
1555~1623年、安土桃山・江戸初期の武将。上杉謙信の養嗣子。豊臣秀吉の五大老に列し会津120万石を領した。関ヶ原の戦で石田三成と結んで敗れ米沢30万石に減封された。
慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。