横浜市内では最も由緒の古い神社の一つとされています。
保安3年(1122年)当地一帯を支配していた小山田氏は、当地周辺を伊勢神宮へ寄進しました。当時は占有権を確実なものにするため領地を寄進する事は多く見られ、榛谷御厨(はんがやみくりや)もそういった所領安堵のために寄進されたと見ることが出来ます。これにより榛谷御厨の総鎮守として広大な社領を有し隆盛を極めたと伝わっています。
戦国時代には一時衰退しましたが天正18年(1590年)、徳川家康の関東入国の時社殿の造営が行われました。元和5年(1619年)には現在地に遷座、社殿の造営・境内の整備が行われました。
平成10年には、鎮座1030年祭・当地遷座770年祭・伊勢神宮鎮座2000年祭を記念して平成の大造営が行われ、380年ぶりに本社、摂末社、神楽殿が一新されました。
参道の注連柱の先に茅の輪くぐりがあります。年に2回、6月の夏越祓と12月の大祓、身の罪や汚れを祓い清め、厄災から逃れるための神事として古くから全国各地で行われています。
水神社では清流人形流しが行われています。積もり積もった身心の汚れを人形に移して流すもので境内に地下からくみ上げた井戸水を用いるとされていました。
広い境内には伊勢神宮と同様に、本社(内宮)に天照大御神を祀り、摂社(外宮)に豊受大御神を祀っています。
境内に祀られた末社は11社、月読社、風社、切部乃王子神社、日之王子神社、鹿島社、雷者、白鳥社、火産社、山神社、山王社、厳島社、見目社、天満宮、稲荷社、水神社でご神徳は多岐に渡っているようです。
日本神話で高天原(たかまがはら)の主神。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の娘。太陽神であり皇室の祖神として伊勢神宮の内宮に祭られています。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)の乱暴に天の岩戸にこもり国中が暗闇になったという岩戸神話や孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を葦原中国に降臨させた天孫降臨の神話が知られています。
1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成を関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。
古事記に登場する神、伊弉冉尊(いざなみのみこと)とともに天つ神の命でおのころ島をつくって天降り、国生みと神生みを行った男神です。
黄泉国(よもつくに)の汚穢(けがれ)を禊(みそぎ)した際に、天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読尊(つきよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)などの神が生まれました。
日本神話に登場する神で出雲神話の祖神とされています。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)の子で天照大神の弟とされています。
高天ヶ原で多くの乱暴を行ったことで天照大神が怒り天の岩戸にこもり、高天ヶ原から追放されました。出雲に下り八岐大蛇を退治し奇稲田姫命(くしなだひめ)を救ったとされています。
日本神話に登場する神様。天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫。天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)の子。天照大神の命で葦原の中つ国を統治するため、高天原から高千穂峰に天降ったとされる。木花開耶姫(このはなのさくやびめ)を妻とし、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)を生んだ。
1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。
1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。
天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。
1560~1600年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に重用され、五奉行の一人として太閤検地などに活躍。秀吉の死後、遺子秀頼を擁ようして徳川家康と対立、関ヶ原の戦いに敗れ京で斬首された。
慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。