清見寺の創建は白鳳年間(7世紀後半)、天武天皇朝の頃です。蝦夷の備えとして清見の関がこの地に設けられましたが関所の鎮護として仏堂が建立されたのが始まりと言います。
鎌倉、室町時代においては朝廷や幕府の支持を受けました。戦国時代は要害の地であったことから今川、徳川、武田、北条の戦火に会い一時は荒廃したこともありました。
今川の人質として幼少期を過ごした徳川家康が清見寺の住職太原和尚に教育を受けたのも知られています。
江戸時代には朝鮮通信使の宿泊所となりこれにより国の史跡に指定されています。境内の山門に掲げられた東海名区の山門は朝鮮使節が残したものです。
食人之食者死人之事と刻まれた石碑は戊辰戦争で新政府と戦った咸臨丸の殉職碑です。榎本武揚に率いられ品川から蝦夷に向かい脱出した咸臨丸が鹿島灘沖で遭難、清水港に流れ着いたのち政府軍により掃討されたと言います。これを悼んで清水の次郎長こと山本長五郎が建立したものと言います。
仏教の開祖。世界4聖の一人。ネパール南部の釈迦族の王子として紀元前6から前5世紀に生まれる。苦行ののち悟りをひらきインド各地で布教して80歳で没したとされる。
はじめは実在の釈迦をさしたが入滅後、超人化・神格化されて信仰・崇拝の対象となる。日本には6世紀、百済からその教えがつたわった。
第40代天皇(在位:673年2月27日~686年9月9日)舒明天皇第三皇子。天智天皇の皇太子となったが、天皇の死に際し吉野に退去。672年挙兵して大友皇子を破り、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に即位。国史の撰修に着手、八色姓(やくさのかばね)を制定し律令体制を推進した。陵墓は奈良県高市郡明日香村野口の檜隈大内陵。
1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成を関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。
李氏朝鮮の国王が日本国王に国書を手交するために派遣した使節。応永11年(1404年)足利義満が日本国王として朝鮮との外交関係を開いてから明治維新まで両国は基本的にその関係を維持した。
王政復古によって成立した新政府が反抗する諸藩軍や旧幕府残存勢力を武力をもって平定し統一国家の基礎を固めることになった内乱。戦乱は1868年(明治1)から69年5月まで1年半に及んだ。鳥羽・伏見の戦いに勝利した政府軍は、4月江戸城を接収、上野にこもる彰義隊はじめ関東各地で旧幕府主戦派を討滅、奥羽越列藩同盟を結んで対抗する諸藩をも会津戦争を頂点に10月には帰順させた。翌年5月、最後の拠点箱館五稜郭を陥落させ内戦は終結、明治国家確立への途が開かれた。
第38代天皇(在位:668年1月3日~671年12月3日)舒明天皇第二皇子。645年(大化1)中臣鎌足と図って蘇我そが氏を滅ぼし、皇太子として改新政治を主導。即位後は都を大津に移し、近江令を制定した。また庚午年籍(こうごねんじやく)を作り、律令体制の基礎を築いた。陵墓は京都府京都市山科区御陵上御廟野町の山科陵。
1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。
1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。
天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。
1560~1600年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に重用され、五奉行の一人として太閤検地などに活躍。秀吉の死後、遺子秀頼を擁ようして徳川家康と対立、関ヶ原の戦いに敗れ京で斬首された。
慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。
1358~1408年、室町幕府三代将軍。足利義詮(あしかがよしあきら)の子。1378年室町殿造営。92年南北朝合一を成しとげ、有力守護大名を抑えて幕府権力を確立し1394年将軍職を義持に譲る。1397年北山に金閣寺を建て北山殿と呼ばれた。