金沢街道の道端に足利公方邸跡の石碑があります。足利義康が屋敷を構えたところで室町時代には足利公方(鎌倉公方)の御所となりました。
足利尊氏が関東を統治するため鎌倉に鎌倉府を設置し後には足利公方または鎌倉公方と呼ばれました。初代は足利基氏で上杉氏はその執事でした。やがて上杉氏が関東管領として実権を握るようになります。
永享の乱(1439年)、享徳の乱(1455年)により鎌倉公方が消滅すると、幕府方の堀越公方・関東管領山内上杉家・扇谷上杉家とが、関東を東西に二分して戦い続けることになります。この歴史の一コマがこの地から繰り広げられていたようです。
室町幕府が関東8ヶ国と伊豆、甲斐の支配を支配のため置いた鎌倉府の首長で鎌倉殿、鎌倉御所、関東公方、関東御所とも呼ばれます。足利尊氏の二男基氏(もとうじ)が貞和5年(1349年) 鎌倉に移ったのに始まり、氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ)、成氏(しげうじ)と世襲されました。康正1年 (1455年)年成氏が古河に移るまで続いきました。
1305~1358年、室町幕府の初代将軍(在職1338~1358)元弘の乱で建武の中興のきっかけをつくる働きをした。のち後醍醐天皇にそむき1336年光明天皇を擁立し室町幕府を開いて南朝と対立した。夢窓疎石に帰依し天竜寺などを建立。
鎌倉公方を補佐すべく任命された官職。足利尊氏は鎌倉公方を補佐すべく斯波家長を関東管領に任じました。その没後は上杉憲顕と高師冬(こうのもろふゆ)が就任しました。
観応の擾乱の足利直義と高師直の対立は、上杉憲顕と高師冬の対立となり高師冬は上杉能憲に攻められ自殺しました。このあと関東管領は上杉氏が世襲することになります。
上杉氏は山内(やまのうち)、扇谷(おうぎがやつ)、犬懸(いぬがけ)、宅間(たくま)の4家に分かれ交代で関東管領に就任した。
上杉氏の勢力が強化されると、永享10年(1438年)鎌倉公方足利持氏(もちうじ)と武力衝突するまでに発展し上杉氏は持氏を敗死させた永享(えいきょう)の乱が起こります。
鎌倉府の家臣らの要請で持氏の子成氏(しげうじ)が鎌倉公方に就任しましたが、上杉憲忠(のりただ)を殺害した享徳の乱が発生し成氏は古河に移ることになります。以後管領上杉氏が公方にかわり関東を支配するようになりました。
戦国時代になると後北条氏など新勢力が台頭し、関東管領山内上杉憲政は越後の長尾氏を頼って逃れ管領職を長尾景虎(上杉謙信)に譲りました。謙信は関東管領として関東を支配しようとしたが後北条氏、武田氏らにはばまれて失敗、謙信の死後は関東管領は名実ともに消滅しました。
永享10年(1438年)鎌倉公方(くぼう)足利持氏(あしかがもちうじ)が将軍足利義教(あしかがよしのり)に対して起こした反乱。義教は今川氏らに討伐を命じ、持氏は鎌倉永安寺で自害した。この乱は持氏の遺子を奉じた結城合戦へと発展していく。
享徳3年(1454年)から1482年まで続いた関東の大乱。鎌倉公方の足利成氏(あしかがしげうじ)が関東管領の山内上杉、扇谷上杉と対立し、上杉憲忠を謀殺し勃発。山内上杉家は房顕を後継者とし幕府は今川範忠を起用して成氏討伐に向かわせた。
康正元年(1455年)範忠は成氏を破って鎌倉に入った。成氏は古河に敗走し古河公方と称するようになる。以後、関東は利根川を挟んで古河公方と上杉氏とが対立し、30年に亘る争いが続く。
室町幕府が関東8ヶ国と伊豆、甲斐の支配を支配のため置いた鎌倉府の首長で鎌倉殿、鎌倉御所、関東公方、関東御所とも呼ばれます。足利尊氏の二男基氏(もとうじ)が貞和5年(1349年) 鎌倉に移ったのに始まり、氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ)、成氏(しげうじ)と世襲されました。康正1年 (1455年)年成氏が古河に移るまで続いきました。
古河公方に対抗するため上杉氏は幕府に新たな鎌倉公方の下向を求めました。幕府は将軍義政の弟足利政知(あしかがまさとも)を東下させましたが、鎌倉に入ることができず伊豆の堀越に御所を構えました。
延徳3年(1491年)あとを継いだ子の茶々丸が北条早雲に攻められ滅亡。
鎌倉公方を補佐すべく任命された官職。足利尊氏は鎌倉公方を補佐すべく斯波家長を関東管領に任じました。その没後は上杉憲顕と高師冬(こうのもろふゆ)が就任しました。
観応の擾乱の足利直義と高師直の対立は、上杉憲顕と高師冬の対立となり高師冬は上杉能憲に攻められ自殺しました。このあと関東管領は上杉氏が世襲することになります。
上杉氏は山内(やまのうち)、扇谷(おうぎがやつ)、犬懸(いぬがけ)、宅間(たくま)の4家に分かれ交代で関東管領に就任した。
上杉氏の勢力が強化されると、永享10年(1438年)鎌倉公方足利持氏(もちうじ)と武力衝突するまでに発展し上杉氏は持氏を敗死させた永享(えいきょう)の乱が起こります。
鎌倉府の家臣らの要請で持氏の子成氏(しげうじ)が鎌倉公方に就任しましたが、上杉憲忠(のりただ)を殺害した享徳の乱が発生し成氏は古河に移ることになります。以後管領上杉氏が公方にかわり関東を支配するようになりました。
戦国時代になると後北条氏など新勢力が台頭し、関東管領山内上杉憲政は越後の長尾氏を頼って逃れ管領職を長尾景虎(上杉謙信)に譲りました。謙信は関東管領として関東を支配しようとしたが後北条氏、武田氏らにはばまれて失敗、謙信の死後は関東管領は名実ともに消滅しました。
足利氏が京都に開いた幕府。1336年足利尊氏の建武式目制定をもって創始された武家政権。鎌倉幕府の制度・機構をほぼ継承して発足し、南北朝合体によって全国統一政権となった。しかし守護領国制の発展による地方分権化に対抗しえず、特に応仁の乱以降は、群雄割拠の戦国時代と化し1573年一五代義昭が織田信長に追放され滅亡。
1305~1358年、室町幕府の初代将軍(在職1338~1358)元弘の乱で建武の中興のきっかけをつくる働きをした。のち後醍醐天皇にそむき1336年光明天皇を擁立し室町幕府を開いて南朝と対立した。夢窓疎石に帰依し天竜寺などを建立。
足利氏が京都に開いた幕府。1336年足利尊氏の建武式目制定をもって創始された武家政権。鎌倉幕府の制度・機構をほぼ継承して発足し、南北朝合体によって全国統一政権となった。しかし守護領国制の発展による地方分権化に対抗しえず、特に応仁の乱以降は、群雄割拠の戦国時代と化し1573年一五代義昭が織田信長に追放され滅亡。
1331年(元弘元年)後醍醐天皇によって起こされた政変。鎌倉幕府の討幕を企てて露顕し、天皇は捕らえられ隠岐に流された。天皇の隠岐脱出に呼応して諸将が蜂起、幕府は倒れ建武の中興をみるに至った。
第96代天皇(在位:1318年3月29日~1339年8月15日)後宇多天皇の皇子。大覚寺統。親政を企てて正中の変、元弘の変に敗れ、隠岐に流された。1333年脱出し新田義貞、足利尊氏らの支援で鎌倉幕府を滅ぼして建武新政権を樹立。
のち公武の不和から親政は失敗し尊氏らも離反、36年吉野に移り南朝を立てた。陵墓は奈良県吉野郡吉野町吉野山の塔尾陵。
北朝第2代天皇(在位:1336年8月15日~1348年10月27日)後伏見天皇の皇子。持明院統。足利尊氏に擁立され光厳天皇のあとを受けて即位。崇光天皇に譲位し院政を行なった。陵墓は京都府京都市伏見区桃山町泰長老の大光明寺陵。
足利氏が京都に開いた幕府。1336年足利尊氏の建武式目制定をもって創始された武家政権。鎌倉幕府の制度・機構をほぼ継承して発足し、南北朝合体によって全国統一政権となった。しかし守護領国制の発展による地方分権化に対抗しえず、特に応仁の乱以降は、群雄割拠の戦国時代と化し1573年一五代義昭が織田信長に追放され滅亡。
1305~1358年、室町幕府の初代将軍(在職1338~1358)元弘の乱で建武の中興のきっかけをつくる働きをした。のち後醍醐天皇にそむき1336年光明天皇を擁立し室町幕府を開いて南朝と対立した。夢窓疎石に帰依し天竜寺などを建立。
室町幕府草創期、足利尊氏(たかうじ)と弟の直義(ただよし)による二頭政治が行われたが直義と尊氏の執事の高師直(こうのもろなお)などのの対立ら貞和5年(1349年)から観応3年(1352年)まで続いた内部抗争です。一時和睦したが、観応3年(1352年)直義は鎌倉で毒殺された。
永享10年(1438年)鎌倉公方(くぼう)足利持氏(あしかがもちうじ)が将軍足利義教(あしかがよしのり)に対して起こした反乱。義教は今川氏らに討伐を命じ、持氏は鎌倉永安寺で自害した。この乱は持氏の遺子を奉じた結城合戦へと発展していく。
1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。
享徳3年(1454年)から1482年まで続いた関東の大乱。鎌倉公方の足利成氏(あしかがしげうじ)が関東管領の山内上杉、扇谷上杉と対立し、上杉憲忠を謀殺し勃発。山内上杉家は房顕を後継者とし幕府は今川範忠を起用して成氏討伐に向かわせた。
康正元年(1455年)範忠は成氏を破って鎌倉に入った。成氏は古河に敗走し古河公方と称するようになる。以後、関東は利根川を挟んで古河公方と上杉氏とが対立し、30年に亘る争いが続く。
1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。
永享12年(1440年)結城氏朝が下総結城城に鎌倉公方足利持氏の遺子春王、安王を奉じて幕府軍に抗した戦い。室町幕府は上杉憲実、清方を討伐に向わせ嘉吉元年 (1441年)年結城城は落ち氏朝は自害した。春王、安王も捕えられ美濃の金蓮寺で斬られた。
1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。
1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。
1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。
足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。
足利氏が京都に開いた幕府。1336年足利尊氏の建武式目制定をもって創始された武家政権。鎌倉幕府の制度・機構をほぼ継承して発足し、南北朝合体によって全国統一政権となった。しかし守護領国制の発展による地方分権化に対抗しえず、特に応仁の乱以降は、群雄割拠の戦国時代と化し1573年一五代義昭が織田信長に追放され滅亡。
1305~1358年、室町幕府の初代将軍(在職1338~1358)元弘の乱で建武の中興のきっかけをつくる働きをした。のち後醍醐天皇にそむき1336年光明天皇を擁立し室町幕府を開いて南朝と対立した。夢窓疎石に帰依し天竜寺などを建立。
室町幕府が関東8ヶ国と伊豆、甲斐の支配を支配のため置いた鎌倉府の首長で鎌倉殿、鎌倉御所、関東公方、関東御所とも呼ばれます。足利尊氏の二男基氏(もとうじ)が貞和5年(1349年) 鎌倉に移ったのに始まり、氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ)、成氏(しげうじ)と世襲されました。康正1年 (1455年)年成氏が古河に移るまで続いきました。
1305~1358年、室町幕府の初代将軍(在職1338~1358)元弘の乱で建武の中興のきっかけをつくる働きをした。のち後醍醐天皇にそむき1336年光明天皇を擁立し室町幕府を開いて南朝と対立した。夢窓疎石に帰依し天竜寺などを建立。
室町幕府草創期、足利尊氏(たかうじ)と弟の直義(ただよし)による二頭政治が行われたが直義と尊氏の執事の高師直(こうのもろなお)などのの対立ら貞和5年(1349年)から観応3年(1352年)まで続いた内部抗争です。一時和睦したが、観応3年(1352年)直義は鎌倉で毒殺された。
永享10年(1438年)鎌倉公方(くぼう)足利持氏(あしかがもちうじ)が将軍足利義教(あしかがよしのり)に対して起こした反乱。義教は今川氏らに討伐を命じ、持氏は鎌倉永安寺で自害した。この乱は持氏の遺子を奉じた結城合戦へと発展していく。
1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。
享徳3年(1454年)から1482年まで続いた関東の大乱。鎌倉公方の足利成氏(あしかがしげうじ)が関東管領の山内上杉、扇谷上杉と対立し、上杉憲忠を謀殺し勃発。山内上杉家は房顕を後継者とし幕府は今川範忠を起用して成氏討伐に向かわせた。
康正元年(1455年)範忠は成氏を破って鎌倉に入った。成氏は古河に敗走し古河公方と称するようになる。以後、関東は利根川を挟んで古河公方と上杉氏とが対立し、30年に亘る争いが続く。
1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。