仙台城の支城として用いられた平山城で片倉氏が代々居住した城です。九州の八代城などと並んで江戸幕府の一国一城制の対象外とされて明治維新まで存続しました。
片倉小十郎景綱は伊達政宗の重臣です。伊達政宗の父、輝宗の小姓として仕えたのち政宗の守役となりました。
二代目片倉小十郎重長は大阪夏の陣、道明寺の戦いで後藤又兵衛、薄田隼人と激闘し鬼小十郎として呼ばれています。真田幸村は三女の阿梅、二男の大八、穴山小助の娘らを重長に託し討死しました。その後、阿梅は重長の後妻となりまた大八は片倉守信として伊達家につかえ後の仙台真田氏となりました。
駐車場から公園の中の道を登って行くと大手門です。再現された本丸には大きな片倉小十郎景綱の顕彰碑が建っています。
三階櫓は1995年(平成7年)に当時の姿をほぼ忠実に復元されたものとか、再現された天守としては珍しい木造の建物と言います。内部には鬼小十郎まつりの紹介がされていました。
1567~1636年、安土桃山・江戸初期の武将。仙台藩祖。隻眼・果断の故をもって独眼竜と称される。出羽米沢を根拠に勢力を拡大したが、豊臣秀吉に帰服、文禄の役に出兵した。関ヶ原の戦いでは徳川方。戦後、仙台藩62万石を領した。家臣支倉常長をローマに派遣した。
1567~1615年、安土桃山時代の武将。真田昌幸の次男。関ヶ原の戦いでは父とともに豊臣方で戦い、のち高野山麓九度山に蟄居。大坂冬の陣では大坂城にはいり、真田丸を築いて東軍を悩ました。
1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。
天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。
文禄元年(1592年)豊臣秀吉が明の征服を目的に朝鮮に出兵した侵略戦争。約16万の軍を釜山に上陸させ明の国境まで進出したが、明の援軍、朝鮮水軍の攻撃や民衆蜂起などによって劣勢となり停戦。
慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。