医王山毛越寺 


 寺社の種類:天台宗の別格本山
 山号:医王山
 創建の時期:嘉祥3年 (850年)、円仁 (慈覚大師)が開山と伝えられる
 本尊:薬師如来
 札所:奥州三十三観音番外札所、四寺廻廊札所
 所在地:岩手県西磐井郡平泉町字大沢58
 訪問日:2015年4月30日

 

毛越寺庭園は国の特別名勝に指定されているところで、中尊寺とともに世界遺産にも登録されています。

毛越寺の山門
境内に「夏草や兵どもの・・」芭蕉句碑
毛越寺の伽藍復元図
南大門跡
本堂の薬師如来
大泉ヶ池

藤原2代基衡、第3代秀衡により壮大な伽藍が再建されてその規模は中尊寺をしのぐものと言われていました。藤原氏滅亡ののち度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失しましたが大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構が残っています。

大泉ヶ池の築山
開山堂
開山堂の案内板
開山堂の扁額
開山堂からの大泉ヶ池
嘉祥寺跡
講堂跡
金堂円隆寺跡
金堂円隆寺跡
曲水の宴が開かれる遣水

池に水を引き入れる遣水では平安時代さながらに曲水の宴が行われます。

常行堂
常行堂
常行堂
常行堂・法華堂跡の案内板
鐘楼
常行堂跡
大泉ヶ池
大泉ヶ池の出島石組と池中立石

 天台宗(てんだいしゅう)

法華経を根本経典とする大乗仏教の一派。575年隋の智顗(ちぎ)が天台山にこもって大成。日本へは奈良時代に唐僧鑑真(がんじん)が初めて伝え、平安初期に最澄が比叡山に延暦寺を建て開宗。のち山門派と寺門派、さらに真盛(しんぜい)派に分かれた。

 

 円仁(えんにん)慈覚大師(じかくだいし)

平安時代初期の僧。延暦寺第3世座主。天台宗山門派の祖。大同3年(808年)比叡山に登って最澄の弟子となる。838年遣唐使の船に乗って入唐する。死後、貞観8年 (866年)慈覚大師を追諡。

 

 薬師如来・薬師瑠璃光如来(やくしにょらい)

東方浄瑠璃世界の教主。人々の病患を救うとともに悟りに導くことを誓った仏で医薬の仏として信仰される。右手に施無畏印(せむいいん)を結び、左手に薬壺(やっこ)を持つ。脇侍に日光菩薩と月光菩薩、眷属として十二神将が配される。

 

 藤原基衡(ふじわらもとひら)

平安末期の陸奥豪族。藤原清衡の子。陸奥・出羽押領使。平泉を本拠地として陸奥六郡を支配。毛越寺を建立した。

 

 藤原秀衡(ふじわらひでひら)

?~1187年、平安後期の陸奥の豪族。藤原基衡の子。鎮守府将軍。平家滅亡後は源義経をかくまって源頼朝に対抗。奥州藤原氏3代の栄華の頂点をつくった。

 

 鑑真(がんじん)・過海大師・唐大和上(とうだいわじょう)

中国、唐代の高僧。日本律宗の開祖。揚州大明(たいめい)寺で戒律を講じ名声があった。742年日本僧栄叡(ようえい)らの請に応じて来日を志したが海賊や風波の災で5度挫折の後、754年渡来した。

 

 最澄(さいちょう)・伝教大師

平安初期の僧。767~822年。天台宗の開祖。比叡山に入り根本中堂を建立。延暦23年(804年)空海とともに入唐し翌年帰国した。

 

 最澄(さいちょう)・伝教大師

平安初期の僧。767~822年。天台宗の開祖。比叡山に入り根本中堂を建立。延暦23年(804年)空海とともに入唐し翌年帰国した。

 

 藤原清衡(ふじわらきよひら)清原清衡(きよはらきよひら)

1056~1128年、平安後期の陸奥の豪族。後三年の役で源義家に味方して異父弟清原家衡らを討ち陸奥六郡と出羽の管領権を握り、奥州藤原氏の基を築いた。平泉に中尊寺を建立した。

 

 藤原基衡(ふじわらもとひら)

平安末期の陸奥豪族。藤原清衡の子。陸奥・出羽押領使。平泉を本拠地として陸奥六郡を支配。毛越寺を建立した。

 

 源義経(みなもとよしつね)

1159~1189年、平安末期・鎌倉初期の武将。源義朝の九男。幼名は牛若丸。平治の乱で捕らえられ鞍馬寺に入り、さらに奥州の藤原秀衡のもとに身を寄せた。兄頼朝の挙兵に応じて義仲を討ち、次いで平氏を一ノ谷・屋島・壇ノ浦に破って全滅させた。のちに頼朝と不和になり奥州に逃れたが秀衡の死後その子泰衡に襲われ、衣川の館で自殺。悲劇の英雄として伝説化される。

 

 源頼朝(みなもとよりとも)

1147~1199年 鎌倉幕府初代将軍。義朝の三男。平治の乱のち伊豆蛭ヶ小島に配流される。1180年以仁王もちひとおうの平氏追討の令旨に応じ挙兵。石橋山の戦いに敗れ安房に逃げたが東国武士の来援を得て関東を制し鎌倉にはいって根拠地とした。平維盛の追討軍を富士川に破り弟の範頼・義経を西上させ、85年壇ノ浦で平氏を討滅し全国を平定。全国に守護・地頭を設置、武家政治の基礎を確立。

 

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