諏訪大社上社本宮の近くに法華寺があります。案内板によると天台宗の寺であったが鎌倉時代に領主・蓮仏入道盛重が中興し建長寺の蘭渓道隆を招いて臨済宗に改めたと言います。
上社の神宮寺として七堂伽藍を配置した大きな寺であったと言います。近くには神宮寺跡も残っています。
織田信長の甲州征伐に際しては信長自らが上諏訪に入り法華寺に本陣を置いたとされています。ここで戦後の論功行賞も行われ、このとき明智光秀が信長に叱責されその後の本能寺の変の遠因になったとも言われています。
また赤穂浪士の吉良亭討ち入りにおいて吉良上野介の養子左兵衛義周は、高島藩に流罪となりその後病死しました。法華寺の裏には義周の墓がありました。
真っ赤な山門をくぐると本堂です。平成11年に火災で焼失し現在は新しい本堂が建っていました。
思いのほか歴史の舞台にも登場するところですがすぐ傍に諏訪大社があることもあって訪れる観光客は多くないようです。
法華経を根本経典とする大乗仏教の一派。575年隋の智顗(ちぎ)が天台山にこもって大成。日本へは奈良時代に唐僧鑑真(がんじん)が初めて伝え、平安初期に最澄が比叡山に延暦寺を建て開宗。のち山門派と寺門派、さらに真盛(しんぜい)派に分かれた。
1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。
中国、唐代の高僧。日本律宗の開祖。揚州大明(たいめい)寺で戒律を講じ名声があった。742年日本僧栄叡(ようえい)らの請に応じて来日を志したが海賊や風波の災で5度挫折の後、754年渡来した。
足利氏が京都に開いた幕府。1336年足利尊氏の建武式目制定をもって創始された武家政権。鎌倉幕府の制度・機構をほぼ継承して発足し、南北朝合体によって全国統一政権となった。しかし守護領国制の発展による地方分権化に対抗しえず、特に応仁の乱以降は、群雄割拠の戦国時代と化し1573年一五代義昭が織田信長に追放され滅亡。
1546~1582年、戦国時代の武将。武田信玄の子。信玄没後家督を継ぎ美濃・遠江・三河に進出したが、長篠の戦いに大敗。以後衰運をたどり織田・徳川軍に追い詰められ天目山麓で自刃、武田氏は滅亡した。
1528~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。美濃の生まれ。織田信長に重用されたが、1582年6月2日、京都本能寺に信長を襲い自害させた。山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ逃走中土民に殺された。