宋我神社は宗我氏の祖先を祀った神社です。曽我郷六ヶ村(上曽我、曽我大沢、曽我谷津、曽我岸、曽我原、曽我別所)のそれぞれの鎮守を明治時代に合祀し、曽我の里の総鎮守となっています。
広い境内には正面に拝殿、梅の里に因んでか狛犬の傍には紅梅と白梅が活けられていました。
参道の先には尾崎一雄の文学碑が建っています。尾崎一雄は戦後期を代表する文学者と言いますが残念ながらその作品はまた見たことはありません。
第15代天皇(在位:270年1月1日~310年2月15日 )仲哀天皇の第4皇子、母は神功皇后。神功皇后が新羅へ渡ったときに身篭っていたことから胎中天皇などと呼ばれています。記紀には渡来人を用いて国家を発展させ、中世以降は軍神八幡神としても信奉されでいます。
大和朝廷の勢力が飛躍的に発展した時期で一説に中国の歴史書に記述のある倭の五王の一人、讃とする説があります。陵墓は大阪府羽曳野市誉田6丁目の恵我藻伏崗陵。
6世紀前半に在位したとされる第26代継体天皇以前の天皇については、第21代雄略天皇を別として実在の可能性が薄いという見解があります。
第50代天皇(在位:781年4月3日~806年3月17日)光仁天皇の皇子。794年、都を平安京に遷した。坂上田村麻呂を征夷大将軍として東北地方に派遣するなど朝廷権力を大きく伸長した。陵墓は山城国紀伊郡柏原にあり柏原天皇とも呼ばれる。陵墓は京都府京都市伏見区桃山町永井久太郎の柏原陵。
古代の豪族。武内宿禰(たけのうちのすくね)を祖とするというが未詳。大和朝廷の重臣として仏教など大陸文化の導入に貢献したが、大化元年(645年)蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)父子は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)らに滅ぼされた宗家は滅亡した。
古代の豪族。武内宿禰(たけのうちのすくね)を祖とするというが未詳。大和朝廷の重臣として仏教など大陸文化の導入に貢献したが、大化元年(645年)蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)父子は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)らに滅ぼされた宗家は滅亡した。
仲哀天皇の皇后、父は開化天皇の曾孫、母は新羅から但馬に来住したという天之日矛(あめのひぼこ)の玄孫たかぬかひめ。
三韓征伐の中心人物で仲哀天皇が熊襲を討つため九州に赴き筑紫の橿日宮で急死すると、妊娠中にもかかわらず武内宿禰とはかり新羅に遠征したとされています。
この遠征により百済と高句麗も日本に帰服ししました。皇后は大和に戻ってから応神天皇を皇太子に立てて約 70年間皇太子の摂政としてみずから政治をとったと言われています。
第26代天皇(在位:507年2月4日~531年2月7日)武烈天皇没後嗣子がなく、大伴金村・物部麁鹿火(あらかび)らに越前から迎えられて河内で即位したと伝えられる。 このころ朝鮮半島における日本の勢力は衰え、筑紫では磐井(いわい)の乱が起こった。また仏教も渡来人によって伝えられ普及し始めた。陵墓は大阪府茨木市太田3丁目の三嶋藍野陵。
第21代天皇(在位:456年11月13日~479年8月7日)允恭天皇(いんぎようてんのう)第五皇子。宋書に見える倭王武とされる。雄略天皇の登場により大王による専制支配が確立され、大王を中心とする中央集権体制が始まったとする見方がある。考古学的に実在がほぼ確定している最初の天皇とされる。陵墓は大阪府羽曳野市島泉8丁目の丹比高鷲原陵。
現在の京都市街の地に唐の都長安に範をとって造営された都城。794年、桓武天皇が長岡京から遷都。応仁の乱でいったん灰燼かいじんに帰したが、1869年(明治2)の東京遷都まで首都としての役割を果たした。
758~811年、平安初期の武将。延暦13年(794年)蝦夷を征討し征夷大将軍となった。その後、胆沢城(いさわじょう)を造営し蝦夷地平定に功を残した。京都の清水寺の創建者と伝えられる。