天正10年(1582年)、織田・徳川の連合軍に攻め込まれた武田勝頼は新府城に火をかけたのち岩殿山を目指した落ち延びようとしていました。しかし小山田信茂の謀反により行き場を失った勝頼は、ここ鳥居畑で最後の戦いを行いました。
武田勝頼と北条夫人、嫡子信勝はこの近くで生涯を閉じたと言います。現在その地は景徳院として武田勝頼主従の菩提を弔っています。
1546~1582年、戦国時代の武将。武田信玄の子。信玄没後家督を継ぎ美濃・遠江・三河に進出したが、長篠の戦いに大敗。以後衰運をたどり織田・徳川軍に追い詰められ天目山麓で自刃、武田氏は滅亡した。
1521~1573年、戦国時代の武将。名は晴信。父、信虎を追放して家督を継ぎ信濃に進出する。越後の上杉謙信と川中島で激戦を展開した。1572年、西上の途次三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康を破ったが翌年三河の陣中で病没。軍略家としてすぐれ信玄家法を制定、鉱山開発・治水にも業績をあげた。