新府城は武田勝頼が釜無川の七里ヶ岩の上に築城した平山城です。長篠・設楽ヶ原の合戦で織田徳川の連合軍に敗れた勝頼が再興を期すべく真田昌幸に普請させました。しかし完成を待たずして甲斐に侵攻した織田・徳川の大軍に家臣団の裏切りもあって勝頼は新府城に火を放ち小山田信茂の岩殿山城を目指したとされています。
急な階段を登って行くと多くな本丸跡にたどり着きます。本丸には藤武稲荷神社が建立されています。
本丸には武田勝頼公の石祠が祀られその傍には武田の家臣の標柱が建っていました。
わずか9か月ほどで完成した城は本曲輪、二の曲輪、東の三の曲輪、西の三の曲輪、帯曲輪などにより構成され、丸馬出し、三日月堀、枡形虎口などの防御施設を持つものです。
復元図などによると大手口方面は幾つもの曲輪に守られいるものの、北側は水堀で囲まれたのみでこの城の弱点とされているようです。
1546~1582年、戦国時代の武将。武田信玄の子。信玄没後家督を継ぎ美濃・遠江・三河に進出したが、長篠の戦いに大敗。以後衰運をたどり織田・徳川軍に追い詰められ天目山麓で自刃、武田氏は滅亡した。
1546~1582年、戦国時代の武将。武田信玄の子。信玄没後家督を継ぎ美濃・遠江・三河に進出したが、長篠の戦いに大敗。以後衰運をたどり織田・徳川軍に追い詰められ天目山麓で自刃、武田氏は滅亡した。
1521~1573年、戦国時代の武将。名は晴信。父、信虎を追放して家督を継ぎ信濃に進出する。越後の上杉謙信と川中島で激戦を展開した。1572年、西上の途次三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康を破ったが翌年三河の陣中で病没。軍略家としてすぐれ信玄家法を制定、鉱山開発・治水にも業績をあげた。
1521~1573年、戦国時代の武将。名は晴信。父、信虎を追放して家督を継ぎ信濃に進出する。越後の上杉謙信と川中島で激戦を展開した。1572年、西上の途次三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康を破ったが翌年三河の陣中で病没。軍略家としてすぐれ信玄家法を制定、鉱山開発・治水にも業績をあげた。
慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。