新府城 
城郭の構造:連郭式平山城
築城の時期:天正10年(1582年)、武田勝頼
主な城主:武田勝頼、徳川氏
廃城の時期:天正18年(1590年)
所在地:山梨県韮崎市中田町中條
訪問日:2016年2月11日
新府城は武田勝頼が釜無川の七里ヶ岩の上に築城した平山城です。長篠・設楽ヶ原の合戦で織田徳川の連合軍に敗れた勝頼が再興を期すべく真田昌幸に普請させました。しかし完成を待たずして甲斐に侵攻した織田・徳川の大軍に家臣団の裏切りもあって勝頼は新府城に火を放ち小山田信茂の岩殿山城を目指したとされています。
急な階段を登って行くと多くな本丸跡にたどり着きます。本丸には藤武稲荷神社が建立されています。
本丸には武田勝頼公の石祠が祀られその傍には武田の家臣の標柱が建っていました。
わずか9か月ほどで完成した城は本曲輪、二の曲輪、東の三の曲輪、西の三の曲輪、帯曲輪などにより構成され、丸馬出し、三日月堀、枡形虎口などの防御施設を持つものです。
復元図などによると大手口方面は幾つもの曲輪に守られいるものの、北側は水堀で囲まれたのみでこの城の弱点とされているようです。
昭和四十八年七月二十一日指定
新府城は、天正十年三月織田軍の侵攻を前に、武田勝頼自ら火を放って東方郡内領岩殿城を指して落ちていった武田家滅亡の歴史を伝える悲創の城跡である。
本城は南北六〇〇メートル、東西五五〇メートル、外堀の水準と本丸の標高差八〇メートル。型式は平山城で、近世城郭のような石垣は用いず、高さ約二・五メートルの土塁を巡らしている。
最高所は本丸で、東西九〇メートル、南北一二〇メートル、本丸の西に蔀の構を隔てて二の丸があり馬出しに続く。本丸の東に稲荷曲輪、二の丸を北方に下れば横矢掛りの防塁があり、その外側に堀を巡らしている。掘は北西から北、北東へと巡り、北方の高地からの敵襲に備えて十宇砲火を浴びせるための堅固なニヵ所の出構が築かれている。三の丸の南方には大手が開け望接があり、三日月形の堀とその外側に馬出しの土塁が設けてある。本丸と東西三の丸、三の丸と大手等の間には、帯曲輪、腰曲輪がある。搦め手にも望楼がある。蔀の構、出構は新府城の特色で防御のために工夫されたもので、特に出構は鉄砲のような新鋭兵器をもって敵の攻撃に対抗するために工夫された構えといわれる。
昭和六十年三月 文化庁、山梨県教育委員会会、韮崎市教育委員会
1546~1582年、戦国時代の武将。武田信玄の子。信玄没後家督を継ぎ美濃・遠江・三河に進出したが、長篠の戦いに大敗。以後衰運をたどり織田・徳川軍に追い詰められ天目山麓で自刃、武田氏は滅亡した。
1546~1582年、戦国時代の武将。武田信玄の子。信玄没後家督を継ぎ美濃・遠江・三河に進出したが、長篠の戦いに大敗。以後衰運をたどり織田・徳川軍に追い詰められ天目山麓で自刃、武田氏は滅亡した。
1521~1573年、戦国時代の武将。名は晴信。父、信虎を追放して家督を継ぎ信濃に進出する。越後の上杉謙信と川中島で激戦を展開した。1572年、西上の途次三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康を破ったが翌年三河の陣中で病没。軍略家としてすぐれ信玄家法を制定、鉱山開発・治水にも業績をあげた。
1521~1573年、戦国時代の武将。名は晴信。父、信虎を追放して家督を継ぎ信濃に進出する。越後の上杉謙信と川中島で激戦を展開した。1572年、西上の途次三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康を破ったが翌年三河の陣中で病没。軍略家としてすぐれ信玄家法を制定、鉱山開発・治水にも業績をあげた。
慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。