薬師寺は興福寺とともに法相宗の大本山です。また平城京周辺において朝廷の保護を受けた南都七大寺のひとつに数えられ寺院、本尊は歴史の教科書でもおなじみの薬師如来です。
駐車場に車を停め狭い路地を暫く歩くと南門です。広い境内には見上げる高さの大きな金堂が建っていました。
広い金堂の中には国宝と言う薬師三尊像が祀られていました。
境内には東西2基の三重塔が建っています。国宝に指定されている東塔は創建当時より現存する建物です。
西塔は昭和56年(1981年)に再建された新しい塔です。
第40代天皇(在位:673年2月27日~686年9月9日)舒明天皇第三皇子。天智天皇の皇太子となったが、天皇の死に際し吉野に退去。672年挙兵して大友皇子を破り、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に即位。国史の撰修に着手、八色姓(やくさのかばね)を制定し律令体制を推進した。陵墓は奈良県高市郡明日香村野口の檜隈大内陵。
薬師如来を中尊とし日光菩薩(にっこうぼさつ)を左脇侍、月光菩薩(がっこうぼさつ)を右脇侍とする三尊形式である。奈良薬師寺の金堂本尊像は、日本における薬師三尊像の最高傑作の一つである。
奈良盆地北端、現在の奈良市西郊に唐の都長安に範をとって造営された都城。710年元明天皇が藤原京から遷都。784年桓武天皇が長岡京に遷都するまで、天平文化の中心地として繁栄した
東方浄瑠璃世界の教主。人々の病患を救うとともに悟りに導くことを誓った仏で医薬の仏として信仰される。右手に施無畏印(せむいいん)を結び、左手に薬壺(やっこ)を持つ。脇侍に日光菩薩と月光菩薩、眷属として十二神将が配される。
薬師如来を中尊とし日光菩薩(にっこうぼさつ)を左脇侍、月光菩薩(がっこうぼさつ)を右脇侍とする三尊形式である。奈良薬師寺の金堂本尊像は、日本における薬師三尊像の最高傑作の一つである。
第38代天皇(在位:668年1月3日~671年12月3日)舒明天皇第二皇子。645年(大化1)中臣鎌足と図って蘇我そが氏を滅ぼし、皇太子として改新政治を主導。即位後は都を大津に移し、近江令を制定した。また庚午年籍(こうごねんじやく)を作り、律令体制の基礎を築いた。陵墓は京都府京都市山科区御陵上御廟野町の山科陵。
薬師如来を中尊とし日光菩薩(にっこうぼさつ)を左脇侍、月光菩薩(がっこうぼさつ)を右脇侍とする三尊形式である。奈良薬師寺の金堂本尊像は、日本における薬師三尊像の最高傑作の一つである。
第43代天皇(在位:707年7月17日~715年9月2日)天智天皇の皇女。文武天皇・元正天皇の母。女帝。和同開珎鋳造、平城遷都や古事記、風土記の編纂が行われた。陵墓は奈良県奈良市奈良阪町の奈保山東陵。
飛鳥時代、持統天皇・文武天皇・元明天皇の都(694~710)。奈良県橿原市高殿を中心とする大和三山に囲まれた地域にある。中国式の条坊制を採用した日本最初の都城とされる。大極殿・朝堂院・官衙などの遺跡が発掘されている。
第50代天皇(在位:781年4月3日~806年3月17日)光仁天皇の皇子。794年、都を平安京に遷した。坂上田村麻呂を征夷大将軍として東北地方に派遣するなど朝廷権力を大きく伸長した。陵墓は山城国紀伊郡柏原にあり柏原天皇とも呼ばれる。陵墓は京都府京都市伏見区桃山町永井久太郎の柏原陵。
784年より10年間、現在の京都府向日市・長岡京市付近に置かれた古代の都。桓武天皇は平城京からこの地に移ったが造都の中心人物藤原種継の暗殺など、不祥事件続発のため794年平安京に遷都。
薬師如来を中尊とし日光菩薩(にっこうぼさつ)を左脇侍、月光菩薩(がっこうぼさつ)を右脇侍とする三尊形式である。奈良薬師寺の金堂本尊像は、日本における薬師三尊像の最高傑作の一つである。