太田神社 


 寺社の種類:神社
 創建の時期:昭和15年(1940年)
 御祭神:誉田別命
 相殿:奥津彦命奥津姫命宇迦御魂命(稲荷)、高オカミ命(たかおかみのかみ・貴船)
 本殿の形式:-
 境内社:稲荷社、貴船社
 所在地:東京都大田区中央6丁目3ー24
 訪問日:2025年3月10日

 

東京都大田区にある神社です。Copilotによると『太田神社は那須与一公ゆかりの神社として知られています。「家運八幡宮」とも呼ばれ、那須与一公が守本尊とした神像を御神体として安置しています。彼の逸話にちなみ、試験の合格祈願や学業成就祈願、スポーツ競技の勝利祈願などにご利益がある』(Copilot 2025/3)とされています。

石鳥居
境内に八幡大菩薩像由緒碑
境内に稲荷神社
御手水場
境内の奥に拝殿
境内の神輿蔵
神楽殿
拝殿
太田神社由緒書き
太田神社由緒書き

《太田神社・由緒書き》

寿永4年(1195)2月、屋島の戦いにて那須与一宗高公が祈念して放った矢は、見事扇を射抜きました。『平家物語』にも描かれるこの逸話は広く知られるところですが、当社は、その那須与一公が守本尊とした神像を御神体として安置し、古来よりその故事に因んで「願えば叶わぬこと無し」と厚く信仰されております。また那須与一公が一本の矢一発で見事扇を射抜いたことから、一度の挑戦をものにしなければならない入学祈願・学業成就祈願・スポーツ競技の勝利などにご利益があるとされて、古くより多くの参拝者に祈願に訪れています。

鎮座年月は不詳ですが、文化、文政期に編まれた『新編武蔵風土記』には既に当社の事が記載されており、さらに当社保存の明細帳には、天明三年(1783)に氏子31戸にて、社を再建した記録が残されています。さらに戦前には300年以上の年輪老松が存在し、大森、方面の漁船の出入の目標にもなっていたこと等から、恐らくす社の創建は350年以上も前に遡るものと推測されています。

当社は古くは「八幡社」と呼ばれていましたが、明治5年から10年の間に「大田神社」と改称されました。その理由は不詳ですが、『北条分限帳』では、当時の市野倉から六郷までを所有していた太田新六郎の氏神だったことから「太田神社」と改称したと伝えています。さらに太田道灌が江戸城築城の際、この地を候補地とし遊猟の折に検分したためという説も存在し、いずれの説が正しいかは確証がありません。

明治以前の神仏混淆時代は、覚廰山長勝寺が別当として管理していましたが、明治初年の神仏分離以降独立し、現在では上神明天祖神社(品川区)宮司の斎藤泰之氏が太田神社の宮司も兼ねて御奉仕しています。明治45年4月25日には、周辺にあった竈神社、稲荷神社、貴船神社(貴船神社は元本門寺の鬼門除として東の院に建立した後に長勝寺の境内に遷した)を合祀し、昭和5年8月11日には旧社殿を移修しましたが、惜しくも昭和20年5月14日の大空襲で、社殿・舞殿とも焼失してしまいました。しかし木造衣冠装束の御神体は覚廰山長勝寺に安置されていたため、奇跡的に難を免れ現在に至っています。

戦後間もなく氏子会が結成され、昭和28年に拝殿が造営されました。その際、別当寺の覚廰山長勝寺に一時的にお遷ししていた御神体は、旧市野倉町内を巡行した後、新しい太田神社社殿に遷座されました。その後平成6年に本殿の造営が行われますが、万一の火災に備えて、完全耐火構造の鉄筋コンクリート造りで施工されました。実に空襲による焼失以来49年振りの御造営となりました。

その他境内には、明治34年に氏子より奉納された狛犬、昭和7年に氏子により奉納された御影石の鳥居、昭和35に造営された社務所、昭和50年に造営された神輿倉などがあります。

 八幡大神(やはたのかみ・はちまんおかみ)誉田別命、品陀別命(ほんだわけのみこと)

日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から弓矢八幡として崇敬を集めました。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされます。

また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)として神宮寺が祀られました。

 

 興津彦(おきつひこ)

古事記によると父親である大年神(おおとしかみ)と母親となる天知迦流美豆比売神(あめちかるみずひめのかみ)の10人の御子神の2人が興津彦、興津姫です。煮炊きをする竈を司る神です。

 

 興津姫(おきつひめ)

古事記によると父親である大年神(おおとしかみ)と母親となる天知迦流美豆比売神(あめちかるみずひめのかみ)の10人の御子神の2人が興津彦、興津姫です。煮炊きをする竈を司る神です。

 

 宇迦御魂命・宇迦之御魂神・倉稲魂命(うかのみたまのみこと)

古事記、日本書記に登場する神です。須佐之男命と神大市比売の子です。農耕の神、商工業の神、商売繁盛の神としても信仰されていて全国の稲荷神社で祀られています。

 

 八幡大神(やはたのかみ・はちまんおかみ)誉田別命、品陀別命(ほんだわけのみこと)

日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から弓矢八幡として崇敬を集めました。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされます。

また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)として神宮寺が祀られました。

 

 応神天皇(おうじんてんのう)譽田別尊(ほんだわけのみこと)八幡大神(やはたおおかみ)

第15代天皇(在位:270年1月1日~310年2月15日 )仲哀天皇の第4皇子、母は神功皇后。神功皇后が新羅へ渡ったときに身篭っていたことから胎中天皇などと呼ばれています。記紀には渡来人を用いて国家を発展させ、中世以降は軍神八幡神としても信奉されでいます。

大和朝廷の勢力が飛躍的に発展した時期で一説に中国の歴史書に記述のある倭の五王の一人、讃とする説があります。陵墓は大阪府羽曳野市誉田6丁目の恵我藻伏崗陵。

6世紀前半に在位したとされる第26代継体天皇以前の天皇については、第21代雄略天皇を別として実在の可能性が薄いという見解があります。

 

 神仏習合(しんぶつしゅうごう)神仏混淆(しんぶつこんこう)

日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた信仰のこと。すでに奈良時代から寺院に神が祀られたり、神社に神宮寺が建てられたりした。平安時代頃からは本格的な本地垂迹(ほんじすいじやく)説が流行し、中世になって両部神道などが成立した。

 

 八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)

八幡神に対して奉られた菩薩号。奈良時代に始る神仏習合から起った称号

 

 素戔嗚尊・須佐之男命(すさのうのみこと)

日本神話に登場する神で出雲神話の祖神とされています。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)の子で天照大神の弟とされています。

高天ヶ原で多くの乱暴を行ったことで天照大神が怒り天の岩戸にこもり、高天ヶ原から追放されました。出雲に下り八岐大蛇を退治し奇稲田姫命(くしなだひめ)を救ったとされています。

 

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