西日暮里公園はかつて道灌山、日くらしの里と呼ばれ江戸の庶民の憩いの場所となっていたところです。明治7年に加賀前田家に売却され前田家当主の神式の墓地がありました。昭和47年、前田家の墓地は金沢に改装されその跡地に西日暮里公園が開設されました。
《道灌山》現地案内板
道灌山は、上野から飛島山へと続く台地上に位置します。安政3年(1856)の「根岸谷中日暮里豊島辺図」では、現在の西日暮里4丁目付近にその名が記されています。この公園を含む台地上にひろがる寺町あたりは、ひぐらしの里と呼ばれていました。
道灌山の地名の由来として、中世、新堀(日暮里)の土豪、関道閑が屋敷を構えたとか、江戸城を築いた太田道灌が出域を造ったなどの伝承があります。ひぐらしの里は、江戸時代、人々が日の暮れるのも忘れて四季おりおりの景色を楽しんだところから、「新堀」に「日暮里」の文字をあてたといわれています。
道灌山・ひぐらしの里は、荒川区内で最も古い歴史をもつ所です。このあたりから出土した土器や、貝塚・住居祉などは、縄文時代から数千年にわたって人々の営みが続けられたことを物語っています。
道灌山・ひぐらしの里は、江戸時代の中頃になると、人々の憩いの場として親しまれるようになりました。道灌山の大半は秋田藩主佐竹氏の抱屋敷になりますが、東の崖ぎわは人々の行楽地ぐ、筑波・日光の山々などを展望できたといいます。また薬草が豊富で、多くの採集者が訪れました。ひぐらしの里では、寺社が競って庭画を造り、きながら台地全体が一大庭園のようでした。
桃さくら鯛より酒のさかなには、みところ多き日くらしの里 十返舎一九
雪見寺(浄光寺)、月見寺(本行寺)、花見寺(妙隆寺<現在は廃寺>)修牲院、青雲寺、諏訪台の花見、道灌山の虫聴きなど、長谷川雪旦や安藤広重ら署名な絵師の画題となり、今日にその作品が伝えられています。
明治時代、正岡子規も道灌山・ひぐらしの里あたりをめぐり、「道灌山」という紀行文を著しました。
山も無き武蔵野の原をながめけり、車立てたる道灌山の上
昭和48年。ここ西日暮里公園が開園し、区民の憩いの場となっています。