県道63号線の途中から城坂をたどり小沢城跡へ、現地の案内板では中津原台地の突端に築かれた山城と書かれています。広い平坦部に本郭があったのでしょうが畑地として開墾が進められ土塁や掘割などの痕跡はありませんでした。
wikipediaによると「相模川右岸の標高120メートルほどの段丘崖に位置し、古沢の船渡しを抑える交通の要衝、丘のふもとを小沢川が流れる要害の地である。1477年(文明9年)の長尾景春の乱において、景春に呼応した金子掃部助が立て籠もり太田道灌に攻められた城であると考えられている」
《小沢城址・愛川町教育委員会》
小沢城はこの辺り、中津原台地の東北隅突端の地形を利して要害とした山城で、室町時代初期の築城といわれる。城域は五、七〇〇平方メートルほどの広さをもっていた。
城主は金子掃部助。山ノ内上杉氏に従っていた長尾景仲に連なる長尾景春の家臣であった。しかるに文明九年(一四七七)一月、扇ヶ谷上杉氏の執事太田道灌によって攻撃され、四月十八日に落城した。いま、遺構として城址の南辺に壕跡をとどめるほか、城坂、城の内、馬つくろい場などの地名がある。また、城主一族の落城悲話が伝説として残っている。