三浦道寸の墓(三浦義意公の供養墓) 
観光地の種類:史跡
所在地:神奈川県三浦市三崎町小網代1095-30
訪問日:2018年10月2日
北条早雲は関東を支配下に置くため三浦一族の岡崎城、住吉城を攻略。永正15年(1518年)油壷の新井城で三浦一族は、三浦道寸と荒次郎親子をはじめ多くの兵士が討死し三浦氏は滅亡しました。
戦死した兵の血で湾が真っ赤になったことから油壷の名が付いたと言います。湾へと下る暗い斜面に三浦道寸の供養塔が祀らています。
新井城主三浦道寸義同は鎌倉以来坂東武門の名族である三浦一族最後の当主となりました。三浦一族は始祖為通に、はじまり鎌倉時代には北条氏とともに幕府を二分して覇権を争ったことはよく知られています。この間、和田の乱(和田義盛滅亡)宝治合戦(三浦泰村滅亡)などいく度か興亡を繰り返し四五〇年の後、奇しくも同じ北条を唱える伊勢新九郎(北条早雲)と戦い、戦国争乱の世の露と消えました。
永正九年(一五一二年) 北条早雲は岡崎城(平塚市伊勢原市両市にまたぐ)から住吉城(逗子市)などにつづいて三浦氏を新井城(油壺) に攻めました。
そして日本籠城史でもまれな凄惨な攻防は三年にわたり、永正十三年七月十一日義同以下城兵ことごとく決戦にのぞみ、ここに、さしもの三浦氏はその歴史を閉じました。
(義同辞世の歌)
討つものも討たるるものもかわらけよ
砕けて後はもとの土くれ
三浦市