文永8年(1271年)佐渡へ配流となった日蓮上人は文永11年(1274年)春に赦免となりました。その後、身延の地頭である南部実長の招きに応じて身延山に入山し、6月17日より鷹取山のふもとの西谷に構えた草庵を住処としました。
弘安4年(1281年)には十間四面の大坊が整備され、日蓮により身延山妙法華院久遠寺と名付けられたと言います。
弘安5年(1282年)9月に病の養生のため身延山を下ったが池上宗仲邸(現在の池上本行寺)にて10月13日に死去したと言います。
駐車場からは斜行エレベータで本堂に登って行きます。大きな本堂は1985年、日蓮聖人700遠忌事業として再建され2500人の法要が行えるところと言います。その隣の祖師堂は日蓮上人の神霊を祀るところで、明治14年(1881年)、江戸にあった寺院のお堂を移築したものと言います。
祖師堂の前のしだれ桜は樹齢400年、全国しだれ桜10選のひとつとして観光案内でもお馴染みの桜で、地面に垂れ下がるサクラを目当てに多くの観光客が訪れるところです。
身延山の山頂(標高1153m)には、奥之院思親閣があります。ロープウェイを利用すると高低差763mをおよそ7分で登ることが出来ます。身延在山の9年の間、日蓮上人は身延山の山頂から遙かに房州小湊のご両親、師の道善房を追慕されたと言います。
奥の院には東コースと西コースの参道がありハイキングコースとしても利用されていると言います。途中には大光坊、法明坊、日蓮上人の墓や草庵跡などの歴史に出会えるところのようです。
山頂に立つ奥ノ院には観光客のほかにちれん講と言われるのか、20人ほどの一行が旗を立てながら参拝にぼって来ていました。
仏教の一宗派。鎌倉時代に日蓮が開いた。法華経を所依(しょえ)とし南無妙法蓮華経の題目を唱える実践を重んじ、折伏(しゃくぶく)・摂受(しょうじゅ)の二門を立て、現実における仏国土建設をめざす。
鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。安房小湊の漁師の子という。17歳ころから鎌倉・比叡山などで11年間修行研鑽し、法華経こそ至高の経典であるとの確信を得、1253年故郷の清澄山頂で題目を高唱して開宗した。
鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。安房小湊の漁師の子という。17歳ころから鎌倉・比叡山などで11年間修行研鑽し、法華経こそ至高の経典であるとの確信を得、1253年故郷の清澄山頂で題目を高唱して開宗した。
仏教の一宗派。鎌倉時代に日蓮が開いた。法華経を所依(しょえ)とし南無妙法蓮華経の題目を唱える実践を重んじ、折伏(しゃくぶく)・摂受(しょうじゅ)の二門を立て、現実における仏国土建設をめざす。
仏教の一宗派。鎌倉時代に日蓮が開いた。法華経を所依(しょえ)とし南無妙法蓮華経の題目を唱える実践を重んじ、折伏(しゃくぶく)・摂受(しょうじゅ)の二門を立て、現実における仏国土建設をめざす。