八菅神社(はすげじんじゃ) 


 寺社の種類:旧郷社
 創建の時期:ー
 本殿の様式:ー
 所在地:神奈川県愛甲郡愛川町八菅山139
 訪問日:2018年2月6日

 

八菅神社は八菅修験道の神社です。現地の案内板によると八菅山は日本武尊が山容が竜に似ていることから蛇形山と名付けられたと言います。大宝3年(703年)、修験道の開祖、役の小角がこの山の国常立尊ほか六神を祀り修法を行いました。これが八菅神社の始まりと伝えられています。

丹沢には大山寺の大山修験、日向薬師の日向修験、八菅山の八菅修験がありました。八菅修験の歴史は古く熊野や京都聖護院の修験者が峰入りした記録が残っています。その後八菅山大権現、八菅山七社権現が祀られ別当寺の光勝寺のもとに、多くの本坊、脇坊を持つ修験集落として栄えていました。

明治の神仏分離令によって神仏習合の修験道は解体されました。八菅神社が郷社となり、山内に居住していた修験者は神官になったり還俗し山麓で帰農したと言います。

八菅修験道の峯入りは八菅山と大山の間の峰々をたどる修行で、最初の3週間は八菅山内堂舎に籠り、勤行、断食などの修行が繰り返され、そののち1週間ほどで行者道をたどると言います。

矢菅山から始まった行者道は塩川滝から華厳山、高取山に、煤ヶ谷に下ったのち辺室山、大山三峰を越え広沢寺に下ります。最後は大山を越え大山不動へと向かいました。現在の登山道も同じところを歩いているようで、その名残を見付けることができるようです。

愛川町・八菅神社の石鳥居
八菅神社の石鳥居
愛川町・八菅神社の社務所
八菅神社の社務所
愛川町・八菅神社の八菅山修験道跡案内図
八菅山修験道跡の案内図
愛川町・八菅神社の八菅山案内板
八菅山の案内板
愛川町・八菅神社の鐘楼
八菅神社の鐘楼
愛川町・八菅神社の石仏
参道の石仏
愛川町・八菅神社の石仏
参道の石仏
愛川町・八菅神社の宝物館
八菅神社の宝物館
愛川町・八菅神社のけやき
八菅神社のけやき
愛川町・八菅神社のおみ坂
八菅神社のおみ坂

八菅神社からはおみ坂と呼ばれる長い石段が続いています。参道にあった八菅山修験道跡要図ではたどり着いた広場は拝殿跡で祖師堂や灌頂堂があったとされるところです。

八菅神社の例大祭ではこの広場で火渡りが行われ修験道の歴史を今に伝えていると言います。

愛川町・八菅神社の急な石段は拝殿跡へ
急な石段は拝殿跡へ
愛川町・八菅神社の御手水舎
御手水舎
愛川町・八菅神社の参道に愛川町の案内図
参道に愛川町の案内図
愛川町・八菅神社の不動堂脇からさらに石段
不動堂脇からさらに石段
愛川町・八菅神社のの由緒書き
八菅神社の由緒書き
愛川町・八菅神社の石段脇に護摩堂
石段脇に護摩堂

さらに石段を登って行くと七社権現の大きな本殿、長い軒先には文字も消えかけた奉納額がかかっていました。

愛川町・八菅神社の社殿
矢菅神社の社殿
愛川町・八菅神社の荷物なども置かれた社殿の内部
荷物なども置かれた社殿の内部
愛川町・八菅神社の榊が供えられた社
榊が供えられた社
愛川町・八菅神社の社殿の軒に古い奉納額
社殿の軒に古い奉納額
愛川町・八菅神社の小さな社が祀られています
小さな社が祀られています
愛川町・八菅神社の社伝の脇を回り
社伝の脇を回り
愛川町・八菅神社の白山堂跡の案内板
白山堂跡の案内板
愛川町・八菅神社の梵天塚の案内板
梵天塚の案内板
愛川町・八菅神社の梵天塚に宝篋印塔
梵天塚に宝篋印塔
愛川町・八菅神社の教城坊塚の案内板
教城坊塚の案内板

本殿の裏には白山堂や梵天塚、教城坊塚などの案内板があります。矢菅山に多くの本坊があった歴史が残っているようでした。

関連記録・コース

 国常立命・国底立尊(くにとこたちのみこと)

日本書紀によれば天地開闢の最初に出現した神様。国狭槌(くにのさつち)尊、豊斟渟(とよくむぬ)尊とともに独化の三神と言われる神様です。

 

 伊弉諾尊・伊邪那岐命(いざなぎのみこと)

古事記に登場する神、伊弉冉尊(いざなみのみこと)とともに天つ神の命でおのころ島をつくって天降り、国生みと神生みを行った男神です。

黄泉国(よもつくに)の汚穢(けがれ)を禊(みそぎ)した際に、天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読尊(つきよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)などの神が生まれました。

 

 伊弉冉尊・伊邪那美命(いざなみのみこと)

古事記に登場する神で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と結婚し、国生みと神生みを行った女神。火神を生んで死に黄泉国(よもつくに)を支配する黄泉大神となりました。

 

 八幡大神(やはたのかみ・はちまんおかみ)誉田別命、品陀別命(ほんだわけのみこと)

日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から弓矢八幡として崇敬を集めました。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされます。

また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)として神宮寺が祀られました。

 

 金山彦神(かなやまひこのかみ)・金山毘古神(かなやまびこのかみ)

日本神話に登場する神様。神産みにおいて、伊弉冉尊が火の神迦具土神を産んで火傷をし病み苦しんでいるときに、その嘔吐物(たぐり)から化生した神である。鉱山を司どり、また荒金を採る神とされ、鉱業・鍛冶など、金属に関する技工を守護する神とされている。

 

 大国主命(おおくにぬしのみこと)大己貴命・大穴牟遅神(おおなむちのみこと)

出雲神話の神。素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子または孫です。少彦名神(すくなびこなのかみ)とともに、中つ国の経営を行っましたが、天照大神(あまてらすおおみかみ)の使者が来ると国土を献上してみずからは隠退しました。

大黒天と同一視されるようにもなりました。因幡(いなば)の白兎の神話は唱歌にも歌われています。

 

 日本武尊・倭建命(やまとたけるのみこと)

日本の古代史における伝承上の英雄。景行天皇の皇子です。気性が激しいため天皇に敬遠され、九州の熊襲(くまそ)や東国の蝦夷(えぞ)の討伐に遣わされたといわれています。風土記なども含めてさまざまな伝説が残っています。

 

 円小角、役行者、神変大菩薩

7世紀末に大和葛木山にいたという呪術者。修験道の開祖と仰がれ,神変大菩薩の勅諡号を受けた。秩序を乱したので699年に伊豆に流された。山岳信仰と密教とが合流するようになって修験者の理想像とされ、その足跡を伝える説話は多く伝えられている。

 

 国常立命・国底立尊(くにとこたちのみこと)

日本書紀によれば天地開闢の最初に出現した神様。国狭槌(くにのさつち)尊、豊斟渟(とよくむぬ)尊とともに独化の三神と言われる神様です。

 

 神仏分離令(しんぶつぶんりれい)廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)

明治元年(1868年3月)、明治政府によって出された神仏習合を禁じた命令。これにより全国に廃仏毀釈(はいぶつきしやく)運動が起り神社と習合していた寺院の仏堂、仏像、仏具などの破壊・撤去された。

 

 伊弉冉尊・伊邪那美命(いざなみのみこと)

古事記に登場する神で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と結婚し、国生みと神生みを行った女神。火神を生んで死に黄泉国(よもつくに)を支配する黄泉大神となりました。

 

 伊弉諾尊・伊邪那岐命(いざなぎのみこと)

古事記に登場する神、伊弉冉尊(いざなみのみこと)とともに天つ神の命でおのころ島をつくって天降り、国生みと神生みを行った男神です。

黄泉国(よもつくに)の汚穢(けがれ)を禊(みそぎ)した際に、天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読尊(つきよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)などの神が生まれました。

 

 八幡大神(やはたのかみ・はちまんおかみ)誉田別命、品陀別命(ほんだわけのみこと)

日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から弓矢八幡として崇敬を集めました。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされます。

また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)として神宮寺が祀られました。

 

 応神天皇(おうじんてんのう)譽田別尊(ほんだわけのみこと)八幡大神(やはたおおかみ)

第15代天皇(在位:270年1月1日~310年2月15日 )仲哀天皇の第4皇子、母は神功皇后。神功皇后が新羅へ渡ったときに身篭っていたことから胎中天皇などと呼ばれています。記紀には渡来人を用いて国家を発展させ、中世以降は軍神八幡神としても信奉されでいます。

大和朝廷の勢力が飛躍的に発展した時期で一説に中国の歴史書に記述のある倭の五王の一人、讃とする説があります。陵墓は大阪府羽曳野市誉田6丁目の恵我藻伏崗陵。

6世紀前半に在位したとされる第26代継体天皇以前の天皇については、第21代雄略天皇を別として実在の可能性が薄いという見解があります。

 

 神仏習合(しんぶつしゅうごう)神仏混淆(しんぶつこんこう)

日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた信仰のこと。すでに奈良時代から寺院に神が祀られたり、神社に神宮寺が建てられたりした。平安時代頃からは本格的な本地垂迹(ほんじすいじやく)説が流行し、中世になって両部神道などが成立した。

 

 八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)

八幡神に対して奉られた菩薩号。奈良時代に始る神仏習合から起った称号

 

 伊弉冉尊・伊邪那美命(いざなみのみこと)

古事記に登場する神で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と結婚し、国生みと神生みを行った女神。火神を生んで死に黄泉国(よもつくに)を支配する黄泉大神となりました。

 

 迦具土神(かぐつちのかみ)・火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)火産霊神(ほむすびのかみ)

古事記に登場する神で、伊邪那岐尊伊邪那美命によって生み出された最後の神です。出産時に伊邪那美命の陰部に火傷ができ、これがもとで伊邪那美命は死んでしまいます。怒った伊弉冉尊は十拳剣天之尾羽張(あめのおはばり)で殺してしまします。

迦具土神の血や死体からは多くの神が生まれました。

 

 素戔嗚尊・須佐之男命(すさのうのみこと)

日本神話に登場する神で出雲神話の祖神とされています。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊弉冉尊(いざなみのみこと)の子で天照大神の弟とされています。

高天ヶ原で多くの乱暴を行ったことで天照大神が怒り天の岩戸にこもり、高天ヶ原から追放されました。出雲に下り八岐大蛇を退治し奇稲田姫命(くしなだひめ)を救ったとされています。

 

 天照大神、天照大御神(あまてらすおおかみ)大日女尊(おおひるめのみこと)・大日霊貴神(おおひるめのむちのかみ)

日本神話で高天原(たかまがはら)の主神。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の娘。太陽神であり皇室の祖神として伊勢神宮の内宮に祭られています。

素戔嗚尊(すさのおのみこと)の乱暴に天の岩戸にこもり国中が暗闇になったという岩戸神話や孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を葦原中国に降臨させた天孫降臨の神話が知られています。

 

 景行天皇(けいこうてんのう)、大足彦忍代別尊(おおたらしひこおしろわけのみこと)

第12代天皇(在位:71年7月11日~130年11月7日 )垂仁天皇の第三皇子。都は大和の纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)。熊襲くまそを征討し、皇子の日本武尊(やまとたけるのみこと)を派遣して蝦夷を平定したという。陵墓は奈良県天理市渋谷町の山辺道上陵。

 

 神仏習合(しんぶつしゅうごう)神仏混淆(しんぶつこんこう)

日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた信仰のこと。すでに奈良時代から寺院に神が祀られたり、神社に神宮寺が建てられたりした。平安時代頃からは本格的な本地垂迹(ほんじすいじやく)説が流行し、中世になって両部神道などが成立した。

 

 神仏分離令(しんぶつぶんりれい)廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)

明治元年(1868年3月)、明治政府によって出された神仏習合を禁じた命令。これにより全国に廃仏毀釈(はいぶつきしやく)運動が起り神社と習合していた寺院の仏堂、仏像、仏具などの破壊・撤去された。

 

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