館山城は里見氏の居城です。現在は城山公園として整備されており、模擬天守が建てられています。内部には南総里見八犬伝に関する読本、絵草子、錦絵などが展示されていました。
里見氏は清和源氏新田氏の流れをくむ一族です。1441年結城合戦の後、義実が安房に落ち延び安西氏などの地元勢力を駆逐し領主となりました。
そののち後北条氏や上総武田氏とたびたび干戈を交えました。国府台合戦で敗退するも永禄10年(1567年)の三船山合戦で北条氏を破り、上総での勢力圏を確固たるものにしました。館山城は天正8年(1580年)、里見義頼によって築城されました。関ヶ原の役では徳川家康の東軍に属しました。慶長19年(1614年)大久保忠隣事件で忠隣の孫娘を室にしていた里見忠義は嫌疑をかけられに里見氏は改易されました。
忠義が死去した後、8人の側近が殉死し、忠義とともに大岳院に葬られ八賢士と讃えられました。江戸後期に曲亭馬琴が著した長編時代小説南総里見八犬伝のモデルになったことでも知られています。
駐車場から長い舗装道路を登って行くと日本庭園があります。年寄りや足の不自由な人のためにここまでシャトルバスが運行されています。
天守閣がそびえる本丸の展望台からは相模灘を挟んで富士山がそびえています。富士山までは110km、その手前には箱根の山、右手には蛭ヶ岳など丹沢の山が見えていますがその山頂を見分けることは難しそうです。
城山公園には八犬伝博物館となっている模擬天守閣が建っていまが周辺には往時の遺構などは見つからないようです。
照葉樹の中の遊歩道を下って行くと八遺臣の墓がありました。墓誌には里見安房守忠義公殉死八遺臣と刻まれていました。
清和源氏新田氏の流れをくむ一族。新田義重の子義俊が上野国里見郷に住し里見氏を称す。1441年結城合戦の後、義実が安房に勢力をおく。17世紀初めに徳川幕府に改易され、江戸後期に曲亭馬琴が著した南総里見八犬伝のモデルになった。
永享12年(1440年)結城氏朝が下総結城城に鎌倉公方足利持氏の遺子春王、安王を奉じて幕府軍に抗した戦い。室町幕府は上杉憲実、清方を討伐に向わせ嘉吉元年 (1441年)年結城城は落ち氏朝は自害した。春王、安王も捕えられ美濃の金蓮寺で斬られた。
1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成を関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。
室町幕府が関東8ヶ国と伊豆、甲斐の支配を支配のため置いた鎌倉府の首長で鎌倉殿、鎌倉御所、関東公方、関東御所とも呼ばれます。足利尊氏の二男基氏(もとうじ)が貞和5年(1349年) 鎌倉に移ったのに始まり、氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ)、成氏(しげうじ)と世襲されました。康正1年 (1455年)年成氏が古河に移るまで続いきました。
足利氏が京都に開いた幕府。1336年足利尊氏の建武式目制定をもって創始された武家政権。鎌倉幕府の制度・機構をほぼ継承して発足し、南北朝合体によって全国統一政権となった。しかし守護領国制の発展による地方分権化に対抗しえず、特に応仁の乱以降は、群雄割拠の戦国時代と化し1573年一五代義昭が織田信長に追放され滅亡。
1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。
1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。
天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。
1560~1600年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に重用され、五奉行の一人として太閤検地などに活躍。秀吉の死後、遺子秀頼を擁ようして徳川家康と対立、関ヶ原の戦いに敗れ京で斬首された。
慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。