武田信玄は元亀3年(1572年)、上洛のため甲府を発つが、翌年陣中で病に倒れ、甲府へ帰る途中の信濃国伊那谷で亡くなりました。信玄は「死を3年の間秘匿」とするよう遺言したと言います。武田家の家督を継いだ勝頼はその遺言を守り、信玄の亡骸をこの地に埋葬し天正4年(1576年)に菩提寺の恵林寺で本葬を行っています。
住宅地の中の墓地には風林火山の旗か掲げられ自治会が建立した武田信玄公墓所の案内がありました。
1521~1573年、戦国時代の武将。名は晴信。父、信虎を追放して家督を継ぎ信濃に進出する。越後の上杉謙信と川中島で激戦を展開した。1572年、西上の途次三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康を破ったが翌年三河の陣中で病没。軍略家としてすぐれ信玄家法を制定、鉱山開発・治水にも業績をあげた。
1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。
1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成を関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。