定額山善光寺(甲斐善光寺、甲府善光寺、甲州善光寺) 


 寺社の種類:浄土宗の寺院
 山号:定額山、院号:智院善
 創建の時期:永禄元年(1558年)、開基:武田信玄
 本尊:善光寺如来(秘仏、重要文化財)
 所在地:山梨県甲府市善光寺3-36-1
 訪問日:2017年7月23日

 

善光寺は武田信玄が川中島の合戦のとき信濃善光寺の焼失を恐れ、永禄元年(1558年)御本尊善光寺如来をはじめ諸仏寺宝類をこの地に奉遷したことに始まります。

善光寺の山門
駐車場に南無阿弥陀仏の石碑
参道の先に朱塗りの本堂
参道に石仏
参道に石仏
参道に石仏

武田氏滅亡により、御本尊は織田、徳川、豊臣氏を転々といたしましたが、慶長三年(1598)信濃に帰座しました。甲斐善光寺では新たに前立仏を御本尊と定め、本坊三院十五庵を有する大寺院として浄土宗甲州触頭を勤め、徳川家の位牌所にもなっていると言います。

参道の御手水場
朱塗りの本堂
精緻な彫刻が施された本堂
本堂の内部に善光寺の扁額
柱に仏身円満無背相 十方来人皆対面
境内にお釈迦さん
北浦翁の石碑
芭蕉の月景塚

参道脇の駐車場には乗用車のほか数台の観光バスも停まっていました。参道にはお土産屋さんが1件、石畳の参道の奥に大きな本堂が建っていました。

善光寺の扁額が掲げられる本堂の柱には善導大師「仏身円満無背相 十方来人皆対面」の額が懸かっています。仏前では檀家の方の法要がなされているようで広い本堂に読経の声が響いていました。

 浄土宗(じょうどしゅう)

法然上人を宗祖とする浄土教の一派。浄土三部経を所依の聖典とするが、観無量寿経を重視して専修念仏によって極楽浄土への往生を宗旨とする。総本山は京都の知恩院。

 

 武田信玄(たけだしんげん)

1521~1573年、戦国時代の武将。名は晴信。父、信虎を追放して家督を継ぎ信濃に進出する。越後の上杉謙信と川中島で激戦を展開した。1572年、西上の途次三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康を破ったが翌年三河の陣中で病没。軍略家としてすぐれ信玄家法を制定、鉱山開発・治水にも業績をあげた。

 

 武田信玄(たけだしんげん)

1521~1573年、戦国時代の武将。名は晴信。父、信虎を追放して家督を継ぎ信濃に進出する。越後の上杉謙信と川中島で激戦を展開した。1572年、西上の途次三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康を破ったが翌年三河の陣中で病没。軍略家としてすぐれ信玄家法を制定、鉱山開発・治水にも業績をあげた。

 

 法然(ほうねん)・円光大師・黒谷上人

鎌倉初期の僧。浄土宗の開祖。1147年比叡山で源光の門に入り天台を学んだ。1150年教学などに対する疑問を生じ西塔黒谷の叡空のもとに隠棲し、法然房源空と称した。

 

 上杉謙信(うえすぎけんしん)長尾景虎(ながおかげとら)

1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。

 

 徳川家康(とくがわいえやす)東照大権現(とうしょうだいごんげん)

1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成を関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。

 

 上杉謙信(うえすぎけんしん)長尾景虎(ながおかげとら)

1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。

 

 徳川家康(とくがわいえやす)東照大権現(とうしょうだいごんげん)

1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成を関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。

 

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