台東区の谷中にある日蓮宗の寺院です。開山の日新上人は徳川家康公の学問教育の師範であったことから、日本橋馬喰町に身延山久遠寺の布教所として大久保治右衛門の外護により創建されました。
境内には日新上人による徳川家康学問教育の図や瑞輪寺本堂創建の喜びの図が紹介されていました。
またこの寺は大相撲の押尾川の乱の舞台になった場所として知られています。二所ノ関部屋の後継で関脇金剛が婿養子となり二所ノ関部屋を継ぎました。このとき押尾川親方は弟子16名とともに二所ノ関部屋を飛び出してこの寺に籠城する事態となりました。押尾川はその後押尾川部屋を経営しましたが、益荒雄などの分家や廃業などで部屋は廃止されました。
南側の山門から境内に入ると飯匙祖師堂があります。ここに祀られる祖師像は江戸十大祖師に数えられ、除厄・安産飯匙の祖師として崇敬を集めています。日蓮聖人が佐渡配流を許され鎌倉に戻る途中、関善左衛門の妻の難産を救ったことから谷中に善性寺を建立し尊像を祀ったものと言います。
参道右手の七面宮には七面大明神が祀られています。中正院日護上人の作と伝えられ日蓮宗の守護神の一つとされています。
仏教の一宗派。鎌倉時代に日蓮が開いた。法華経を所依(しょえ)とし南無妙法蓮華経の題目を唱える実践を重んじ、折伏(しゃくぶく)・摂受(しょうじゅ)の二門を立て、現実における仏国土建設をめざす。
1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成を関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。
鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。安房小湊の漁師の子という。17歳ころから鎌倉・比叡山などで11年間修行研鑽し、法華経こそ至高の経典であるとの確信を得、1253年故郷の清澄山頂で題目を高唱して開宗した。
1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。
1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。
天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。
1560~1600年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に重用され、五奉行の一人として太閤検地などに活躍。秀吉の死後、遺子秀頼を擁ようして徳川家康と対立、関ヶ原の戦いに敗れ京で斬首された。
慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。